■「決壊」(上・下) 平野啓一郎 (新潮社)
初版は2008年6月。秋葉原で起きた無差別殺傷事件の直後に刊行されたことで話題になった本書ですが、雑誌連載は2006年11月~2008年4月。ブックオフお手頃価格で入手できたので読んでみました。
ストーリーはこんな感じ。
「2002年10月、全国で次々と犯行声明付きのバラバラ遺体が発見された。被害者は平凡な家庭を営む会社員・沢野良介。事件当夜、良介はエリート公務員である兄・崇と大阪で会っていたはずだったが…。」(「BOOK」データベースより)
著者の作品を読むのはデビュー作「日蝕」以来。これは中世ヨーロッパを舞台とした、いわゆる純文学らしい作品だったけど、本書はインターネットが普及した今日の日本における犯罪、家族、社会と個人…といったきわめて現代的な題材を扱った内容となっている。終盤まで犯罪の真犯人が分からない展開などはミステリ的でもあり、また細部まで緻密に書き込まれた長大な作品というところからは、初期の高村薫作品などを思わせるところもある。密度の高さとそのボリュームにもかかわらず一気に読ませる「力」のある小説であることは間違いないだろう。
最初にも触れたけど、本作は秋葉原の無差別殺傷事件との類似性が大きく話題になった。たしかに、ネット上での犯罪予告、社会の中で抑圧され孤立した人物が無差別的な大量殺傷を行う…という部分は、まさに秋葉原の事件を予言したものといってもいいくらいだろう。
私もそういう評判は知っていたので、まさにそれがメインの話なのだろうと思って読み始めたのだけど、実際に読み進んでいくと実は少し違っていた。確かに犯罪はとても大きな一要素ではあるのだが、本作の核になっているのは、「犯罪に巻き込まれたことによって崩壊していくある一家の物語」なのではないだろうか。
ストーリーは、沢野家の二人の息子が帰省してくる夏休みの描写から始まる。父親はすでにリタイアし、息子たちはそれぞれに独立している。長男は東大卒の優秀な国家公務員であり、次男は一般企業の会社員だが結婚して子供も生まれている。外から見ればごく「幸福そうな」一家だろう。しかし、父親は体調を崩しており、どうもそれがうつ病かもしれない…というところに、微妙な影が差している。そこから家族の人間関係の軋みが見え始める。お互いに考えていることがうまく伝わらない、相手が何を思っているのか分からないから疑心暗鬼が芽生えてくる…。
その家族の心の隙間に忍び込んだのが「悪魔」を自称する犯罪者だった。次男が事件に巻き込まれ惨殺されたことで、それまで家族の形をつなぎとめていたものが断ち切られる。すなわち、そこから始まる一家の崩壊こそが、タイトルにもなっている「決壊」ということなのではないだろうか。
この家族の崩壊が縦糸とするならば、横糸はもちろん犯罪である。この犯罪側にも、反社会的行動に一歩踏み出す「決壊」の瞬間があることは間違いない。しかし、読んだ印象としては、沢野家の崩壊ほど物語のメインではないので、圧倒的に書き込まれているという印象はなかった。むしろ、容疑者とされてしまった沢野家の長男(いちおう彼が主人公ということになるのだろう)を巡る警察の取り調べの在り方やメディアの報道姿勢、ネット上の風評…といった現代的な問題などともあわせて、家族を崩壊させる「外的要素」として描かれているような気がした。実際、犯罪も起こらず、警察の誤認捜査や嵐のようなメディアの報道やネットの風評などがなければ、沢野家はかろうじてその形を保ち続けることが出来たかもしれないのだから。
いずれにしても、学者や批評家が扱うような現代的であり、かつ大きなテーマに真正面から取り組み、しかもそれを大作のエンターテインメントとしても成立させてしまっている著者の力量には脱帽させられる。結末があまりにも徹底的であるため、救いがなさすぎるという意見もあるみたいだけど、個人的には衝撃と余韻という観点からはこれも「あり」ではないかという気がした。