映画・テレビ

2017年9月23日 (土)

西遊記2~妖怪の逆襲~

■映画「西遊記2~妖怪の逆襲~」 錦糸町 楽天地シネマ

公開前から行こうと思っていたのに、いろいろあって最終日に滑り込みで見ることができた。お客さんは3人ほどだったかな。

ストーリーはこんな感じ。
「孫悟空(ケニー・リン)、猪八戒(ヤン・イーウェイ)、沙悟浄(メンケ・バータル)を引き連れ天竺への旅を続ける三蔵法師(クリス・ウー)。たどりついた比丘国では、九宮真人(ヤオ・チェン)に迎えられるが、三蔵法師は常軌を逸した気分屋の国王の機嫌を損ねてしまう。困った彼は孫悟空に助けを求めるが、事態は悪化するばかりで…。」(シネマトゥデイ)

2014年公開のチャウ・シンチー監督『西遊記~はじまりのはじまり~』の続編。ただし、本作では監督がツイ・ハークに交代している(チャウ・シンチーは製作と共同脚本)。シリーズもので監督が違うというのは「スターウォーズ」などもそうなので別にいいのだが、三蔵法師や孫悟空といった主要キャストも総入れ替え…ということで、どうなんだろうか?という気はしていた。

結論からいえば「まあまあおもしろい」。三蔵が徳の高い僧侶ではなく「妖怪ハンター」だというぶっ飛び設定などはそのままなのだが、全体のノリが前作とは微妙に変わっていて、最初はそれになじむのに若干時間がかかる。また、キャストが新しくなっているので、各キャラクターの性格も少しずつ変わっており、前作を見ている人の方が序盤では違和感があるかもしれない。とりわけ、三蔵法師と孫悟空はどっちもかなりのイケメンが起用されているせいで、前作の持ち味だったオトボケ感がかなり弱まっている。

最初の蜘蛛女の館のエピソードは軽いジャブ。話に勢いが出てくるのはやはり比丘国に入ってからだろう。ヤオ・チェンの九宮真人がいい味を出している。機械仕掛けのおもちゃみたいな紅孩児との戦闘シーンは最初のクライマックスだ。ここではじめて孫悟空が本気を出すのだが、背中に4本の幟を立てて京劇さながらの効果音ととも飛び出してくるシーンは理屈抜きにアガるね!

リン・ユン演じる小善が登場してくる後半のエピソードもいいね。チャウ・シンチーの『人魚姫』でもヒロインだった彼女の可憐さが炸裂! このパートは彼女が最大の見どころといってもいいだろう。ただ、孫悟空の変身シーンは、その前の紅孩児との戦いで「切り札」を切ってしまっているため、なぜか熱した巨大溶岩の塊みたいな姿になる。うーん、なんか孫悟空のイメージじゃないんだが…。とはいえ、スケール感が大きすぎてもはや何が何だかわからない戦いのシーンは迫力十分。最後は仏さまが出てきて…というのもまあお約束だろう。

注文をつけるとしたら、「じつは三蔵と悟空が組んだ芝居でした」というオチの前に、後から「なるほど、あれが伏線だったのね」と思い当たるような仕掛けが欲しかったことかな。自分が見落としていただけかもしれないが、妖怪を映す照魔鏡で見ても普通の人にしか見えないのに、なぜ妖怪だと見抜けたのか…とか。ちょっとモヤモヤが残ってしまったのだが。いい加減なところが魅力となっている作風とはいえ、ストーリーに関する部分はしっかりしてほしかった気はした。

ということで続編は出来たのだが、このシリーズ今後も続くのだろうか。続けようと思えばほぼ無限に続けられる作品ではあるので、お願いしたい気はするね。

(やっぱりキャストは前作の方が好きだったかも…)
Sai

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2017年8月28日 (月)

関ケ原

■映画「関ケ原」 渋谷 TOHOシネマズ

予告編の段階ではそんなに興味は持ってなかった作品。ところが、なぜか急に「歴史ものもいいね!」という気分になり…。公開初日の初回上映を見てきた。

ストーリーはこんな感じ。
「豊臣秀吉の死後、豊臣家への忠義を貫く石田三成(岡田准一)は、天下取りの野望に燃える徳川家康(役所広司)と対立を深めていく。そして1600年10月21日、長きにわたった戦国時代に終止符を打った歴史的合戦『関ヶ原の戦い』は、早々に決着がついた。有利と思われた三成率いる西軍は、なぜ家康率いる東軍に敗れたのか…?」(シネマトゥデイ)

日本の歴史から強烈なドラマ性のある時代を選ぶとすれば、「源平合戦前後」「戦国時代」「幕末~明治維新」「太平洋戦争前後」あたりだろうか。とりわけ戦国はダントツの人気ナンバーワン時代であり、その中でも関ケ原は最大のイベントといえる。本作はそんなものすごく大きな題材に真正面から挑んだ映画であり、司馬遼太郎の原作を下敷きにしていることを強く前面に押し出しているのも特徴だろう。

ちなみに司馬遼太郎の「関ケ原」は未読なので、ここからの感想はあくまでも映画を見た印象だけをもとにして書いてみたい。

主人公は石田三成。徳川家康と戦った三成は江戸時代はずっとヒール扱いされ、今でもその名残りからか、三成=悪い官僚の典型といったイメージが残っている。司馬遼太郎はおそらく長い間歪められてきた三成の真の姿を描こうとしたのだろう。本作でも三成は人間味があり、「正義」を重んずる理想主義者とされている。しかし、結果的には現実主義の家康に敗れていくことになる。その意味では、見終わった後に「負けちゃったけど三成、カッコよかったな~」と思えたら、作品としては成功だったことになるのではないだろうか。

だが、本作の三成がそこまで魅力的だったかというと…正直微妙であった。むしろ、老獪で泥臭い家康の方が、役所広司の演技力のせいもあって、主役を食ってしまってる印象さえあった。両雄を対比させて描くならそれでいいかもしれないが、あくまでも三成を主人公とするなら、終始完全に「三成目線」で徹底してもよかったかもしれない。その方が見終わった後にどーんと余韻が残ったような気がするのだが…。

そんなわけで「三成再評価」という観点からは、もうひとつスカッとしない仕上がりだった気がしたのだが、良いところ、見ごたえのあるところもあった。

まずは、衣装、美術、ロケーションなども含めた映像はかなりよく出来ている。戦国末期らしいきらびやかさもあり、同時に日本的な渋さも感じられた。クライマックスとなる合戦シーンも正攻法で見ごたえがあった。関ケ原は大規模軍団同士が激突した戦いであり、それを時間もたっぷり使ってきちっと見せている。その意味ではタイトルに偽りなしで良かった。槍を持った足軽集団同士の戦いも、槍で「突く」のではなく、ちゃんと上から「叩いて」いる。たしか、ああいいうのが槍の本来の使い方だとどこかで読んだ記憶がある。それを実際の映像で見ることができ、細部までのこだわりも感じられた。騎馬武者の母衣(ほろ)なども華やかでよく映えていた。

原田眞人監督は、以前の「駆込み女と駆出し男」でも、けっこう本格的な江戸言葉のセリフを採用していた。本作にも現代語っぽい言い回しはほとんどなく、非常に時代劇らしくて好印象。反面、大きな題材を限られた時間に収めるために、全編でセリフが早口になってしまったのは惜しかった。「間」の感覚がなくなってしまっている。上映時間2時間29分と決して短くはない作品なのだが…。

配役は概ね良かったが、有村架純だけはなんとなく顔が現代的に感じられた。メイクとかヘアスタイルのせいだろうか。同様にちょっと「?」と思ったのは、クレジットの文字に一部英語(ローマ字)が使われていたこと。海外市場を意識してのことかもしれないが、せっかくの和風画面にあまりフィットしてなかった気がした…。

(家康の存在感が強烈。見方によっては家康が主人公のようにも見えてくる)
Seki

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2017年8月19日 (土)

ファウンダー ハンバーガー帝国のヒミツ

■映画「ファウンダー ハンバーガー帝国のヒミツ」 新宿 角川シネマ

劇場で予告編を見て。公開直後に行ってみると終日満席。2回目に行ってもまたもや満席。新宿の上映キャパが小さいせいなのだが、3度目の正直でようやく見ることができた。

ストーリーはこんな感じ。
「1954年、アメリカ。52歳のシェイクミキサーのセールスマン、レイ・クロック(マイケル・キートン)は、ミキサーを8台もオーダーしてきたマクドナルドというドライブインレストランに興味を覚え訪ねてみる。そこでレイは、経営者のディックとマック兄弟による、高品質、コスト削減、合理性、スピード性などを徹底させたビジネスコンセプトに感銘を受ける。契約を交わしてチェーン化を進めるが、ひたすら利益を求めるレイと兄弟の仲は険悪になっていき…。」(シネマトゥデイ)

誰もが知っているハンバーガーチェーン「マクドナルド」。その創業秘話を映画化した実話もの作品である。監督はジョン・リー・ハンコック。前作の『ウォルト・ディズニーの約束』と同様、最後に登場人物たちの実際の写真や肉声を紹介し、物語がたしかに事実に基づくものだということを実感させる手法をとっている。「事実は小説より奇なり」とはよく言われることだが、実話もの映画らしい迫力とおもしろさが一体化したダイナミックな作品に仕上がっている。

タイトルの「ファウンダー」とは「創業者」という意味だ。しかし、マクドナルドのハンバーガービジネスを実際に生み出したのは、主人公のレイではなく、カリフォルニアで自分たちの店をやっていたマクドナルド兄弟だった。商品や販売スタイルだけでなく、有名な黄色いアーチのデザインまで兄弟が考えたものだったのだ。
そんなマクドナルドのビジネスは、当時としてはたしかに画期的なものであったが、そのままなら田舎町の風変わりな店のままだったかもしれない。だが、レイが関わったことによって、その後マクドナルドは急速な発展を遂げることになる。「ファウンダー」とは、「全米、全世界に展開する巨大チェーンとしてのマクドナルド」を創業した人物ということなのである。

このマクドナルド兄弟とレイの関係は、「0から1を生み出すベンチャー起業家」と「1を100にする成長請負人」ということになるだろう。両者は求められる資質がまったく異なるとはよく指摘されることである。実際に大きく成長したニュービジネスは、その発展プロセスのどこかで経営責任者が交代していることが多い。
この起業家から成長請負人へのバトンタッチが円満に行われるのが一つの理想ではあるが、往々にして起業家は自らが生み出したビジネスに愛着があるから揉めることになる。本作でもそのあたりは後半の見せ場となっている。目的に向かって邁進するレイは、まさに血も涙もない資本主義の権化のようだ。マイケル・キートンの演技が最高にハマっている!

マクドナルド兄弟から見れば、レイはいわゆる「乗っ取り屋」ということになるかもしれない。結果的にすべての権利を譲渡する対価は270万ドルだった。当時は1ドル=360円だから、日本円に換算すると9億7200万円。しかも1960年代初頭である。現在の貨幣価値だとざっと10倍として約100億円だろうか。これを安く買い叩いたと見るか十分と考えるか…。

そんなレイだが、52歳までしがないセールスマンだったことも忘れてはならないだろう。1950年代だから、今の感覚だともう60歳くらいかもしれない。それなのに営業先のモーテルで夜ごと自己啓発のレコードを聞いては「いつかチャンスがくる」と機会をうかがっていたのである。彼はビジネスにもっとも大事なのは根気だというが、まさに恐ろしいほどの根気である。そんな準備期間があったからこそ、彼はマクドナルドというチャンスを確実に捉えることができたのだろう。

本作を見ていると、成功に不可欠な要素は「チャンス」「能力」「運」…この三つだということがわかる。レイは根気やバイタリティーといった能力は十分だったが、52歳まではチャンスに巡り合えなかった。能力だけではどうにもならないのである。また、マクドナルドというチャンスを得てからも、事業はかなり綱渡りだった。資金繰りなどで相当苦しんでいたことが作中でも描かれている。そんな時、辣腕の財務アドバイザーにたまたま巡り合う。これは運の強さだろう。この三つの要素がそろうことはそうそうない。だからこそ成功物語はまばゆくおもしろい。

この他にも、雌伏期から創業期を支えてくれた奥さんと別れて、一目ぼれした人妻と再婚(てことは略奪婚?)なんてエピソードも出てくる。このへんはあまり恋愛方面に深掘りはしてないけど、レイの目標達成最優先なキャラを裏づける重要エピソードにもなっている。

生み出した価値観を守りたいオリジネーターとその商業化を進めたいビジネスマンの対立。この図式は監督の前作『ウォルト・ディズニーの約束』とほぼ同じである。しかし、結末と後味はまるで逆の映画が生まれることになった。両作を比べてみてもおもしろいのではないだろうか。

(マイケル・キートンをキャスティングできたことでこの映画の成功は決まった?)
Mac

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2017年8月 9日 (水)

海辺の生と死

■映画「海辺の生と死」 テアトル新宿

新聞で紹介されていたのを読んで。実は前の週にも見に行ったところ、たまたま1日(割り引きがあるファーストデイ)で満員。その日は断念していた。仕切り直しということで。

ストーリーはこんな感じ。
「太平洋戦争の終わりも近い1945年。奄美群島の加計呂麻島の小さな集落に、海軍の特攻艇部隊を率いる朔隊長が赴任してくる。島の子供たちに慕われ、仲間と酒を飲むより地元に溶け込もうとする朔に、国民学校教師のトエ(満島ひかり)はいつしか惹かれていく。やがて、出撃命令を待つ朔とトエは互いの思いを確かめ合い、明日をも知れぬ中で激しい恋に落ちる。」(シネマトゥデイ)

この映画に描かれているエピソードはほぼ実話といっていいのだろう。隊長のモデルは後に作家となる島尾敏雄、トエは同じく作家の島尾ミホである。彼らはこの戦時中の体験や戦後の結婚生活を作品にしており、日本文学が好きな人にとっては非常に有名な話といえる。ちなみにこのカップルのお孫さんは漫画家のしまおまほさんで、かせきさいだぁの奥さんである。

しかしながら、私自身は原作となっている彼らの小説については未読であった。それなのに、この戦時中の島で燃え上がった恋のエピソードを知っていたのは、ひとえに中森明夫氏が1998年にまだ存命中だった島尾ミホに会って書いた文章を読んでいたからである。そして、その文章がものすごくロマンチックで強く印象に残っていたことが、この映画を見てみたいと思った直接的な動機だった。

少々長くなるが一部を引用してみる。
「加計呂麻島呑乃浦。半世紀以上も前にこの場所で若い命らが一人乗り特攻艇によって自爆攻撃を果たすため待機していた。特攻隊を率いる青年海軍中尉は、村人にやさしく子供らに好かれ、『ワーキャジュウ(我々の慈父)』と呼ばれて島の守り神となっていく。(中略)真白い海軍の制服を着たマレビトと、カナ(姫)と呼ばれる村長の一人娘ミホは、宿命のように出逢い恋に落ちる。戦争が二人の恋を神話にした。遂に出撃命令が下り、その夜、死出の装束に身を固めたミホは手足を傷だらけにしながら浜辺をひた走る。恋する人とのひと時の逢瀬。やがて彼女は慟哭して浜に正座する。隊長の出撃を見届け、自ら短剣で喉を突いて海中に身を投げるために。しかし、出撃は果たされず終戦、生き延びた二人には『死の棘』の戦後が待っていた……。」(中森明夫『女の読み方』朝日新書 2007年より)

どうだろうか。まさにこの映画そのものではないか。本当にあった出来事なのにまるで神話のようだ。文明圏からやってきた青年と土地のエネルギーを身にまとった娘が恋に落ちる。永遠の時間が続くかと思われる南の島での暮らしと、いったん出撃が決まれば明日にも死ぬことになる戦争という現実が交錯する。映画は二人が惹かれあっていくプロセスを2時間35分の上映時間をたっぷり使いながら描いていく。登場人物によって数多くの島唄が歌われるが、いわゆる劇伴の音楽はない。そのかわりに島の言葉が音楽のようなリズムを生んでいく。もう一つの特徴は夜のシーンが多いことだろうか。闇はまるでこの世とあの世をつなぐ扉のようだ。他にも花や書物といった小道具が象徴的な役割を果たす。わかりやすいエンターテインメントではないが、非常に濃密な情報量を持った映画だと感じた。

トエを演じるのは沖縄出身だが奄美にルーツを持つという満島ひかり。彼女が垣間見せる役になりきる狂気のようなものが、恋のために命をも投げ出さんとする主人公とオーバーラップしていく。素晴らしいはまり役だろう。島民や子供たちは全員ロケ地の奄美地方で採用されたキャストで、これもとてもナチュラルで良い効果を生んでいる。

ただ、気になったところもないわけではない。終盤、村人たちが集団自決を企てるような描写がある。実はさきほどの中森氏の文章にも「(島民は島尾隊長を称え)隊長の出撃と同時に集団自決する意志さえ固めていた」という記述があるのだ。おそらく原作となった島尾夫妻の著作にもそういったエピソードがあるのだろう。ただ、最終的に最悪の事態は回避される。この顛末はもう少しわかりやすくするか、あえてカットでもよかったのではないだろうか。せっかくの終盤でやや観客を混乱させていたような気がした。ひょっとしたら自分が大事な部分を見落としたせいかもしれないが…。

(本格文芸映画として見ごたえ十分。映像も美しいので劇場でぜひ)
Umibe2

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2017年7月18日 (火)

カーズ/クロスロード

■映画「カーズ/クロスロード」 渋谷 TOHOシネマズ

ディズニー/ピクサーのアニメーション映画。シリーズものだけど、たぶん1作目をテレビで見たことがあるくらいかな(記憶もあまり…)。予備知識少なめで見た感じ。

ストーリーはこんな感じ。
「目覚ましい活躍を見せてきたスポーツカーのライトニング・マックィーン。しかし、最新型レーサーが次々と台頭してくる中で苦戦を強いられている。いつまでも第一線にいたいという焦りに駆られるマックィーンは、レース中に大事故に遭遇。運にも世間にも見放され、周辺には引退という文字がちらつきはじめるが…。」(シネマトゥデイ )

自動車たちがまるで人間のように暮らす世界を舞台にした物語。その点だけをとれば子供向け作品のようにも思えるが、ディズニー/ピクサーの制作とくれば、絶対に大人でも見ごたえのあるしっかりしたストーリーになっているはず…と思っていたらその通りだったね。

映像ももちろん素晴らしいのだけど、これについてはもうマヒしてきている感じ。最近のCGアニメーションのクオリティーは本当にすごい。実写と見まがうような映像が次々と繰り出される。見ごたえは十分だ。

しかし、本当にうならされるのはやはり脚本と演出の隙のなさだろう。シリーズも3作目。主人公はベテランの域に達し、そろそろ引退がちらつく年代になっている。この設定からしてすでに全然「子供向け」ではない。大人でもむしろ中高年以上がよりぐっとくるような渋い話を真正面からかましてくれる。もちろん、そんな話であっても、若者も子供もばっちり楽しませるぜ!…という自信があるからこそなのである。実際に年齢関係なく満足できるであろうエンターテインメント作品にきっちり仕上げている。さすがとしかいえない。

見終わって感じたのは、この「カーズ」というシリーズ、けっこう「ロッキー」なのではないか…ということだった。まあ、「1」はテレビでざっと見ただけ、「2」は未見の状態なので、あくまでも3作目の本作を見た印象にもとづいての感想なのだけど…。
では、具体的にどのへんが「ロッキー」なのかというと、まずベースとなっているのが「アメリカ流のスポ根」ということだ。強敵を倒すための努力や工夫、モチベーションなどが物語の見どころとなっており、その背後には「師匠から弟子への魂の継承」というテーマが隠されている。もうこの段階でおもしろくないはずがない鉄板の設定である。

シリーズ3作目の本作では、ライバルはハイテクをフル装備した「新世代」となる。実際の能力では主人公はもう完全に追い抜かれているのだが、そんなロートル世代がアナログな特訓によって、「まだ新世代には負けない!」というところを見せようとする…物語はそんな展開で進んでいく。このアナログでハイテクに勝負を挑む…というあたりも娯楽映画の王道。勝てるのか?どうなる?…と展開から目が離せない。

しかし、本作はそれだけでは終わらない。終盤でさらに大きな仕掛けを用意している。「ロッキー」っぽさを感じさせるもう一つのテーマ「魂の継承」が急速に浮かび上がってくる展開だ。こうなると「ロッキー4」あたりと「クリード」を両方いっぺんに見ているようなおもしろさのてんこ盛りとなる。そして、主人公の魂を受け継ぐのが女性だという点は、最近のディズニー映画のトレンドと完全に一致するものといえるだろう。

本作の世界観でもう一つ興味深いのは、背景が「アメリカの田舎」ということでもある。日本人にとってアメリカらしい風景というと、どうしてもニューヨークやLAなど大都会をイメージしてしまいがち。しかし、そういう大都会はどちらかといえば「アメリカっぽくないところ」だともよく指摘される。本作は、景色だけでなく文化的なものも含めて、アメリカの田舎の感覚が非常によく打ち出されているのではないだろうか。プロレス的な草レースのエピソードなどがその真骨頂だろう。そんなところも含め多面的に楽しめる映画でもあると思った。

(見たのは日本語吹き替え版。ヒロイン役の松岡茉優さん、本当に芸達者!)
Cars

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2017年7月13日 (木)

ボンジュール、アン

■映画「ボンジュール、アン」 日比谷 TOHOシネマズ シャンテ

気軽に見られそうな映画ないかな…と探していたらこの作品が目についた。ネットで予告編をさっと見たくらいの予備知識で…。

ストーリーはこんな感じ。
「仕事漬けの映画プロデューサー・マイケル(アレック・ボールドウィン)の妻、アン(ダイアン・レイン)は、ひょんなことから夫の仕事仲間・ジャック(アルノー・ヴィアール)の車に同乗してカンヌからパリに向かうことになる。単なる移動のはずのドライブは、予想に反して、おいしい食事や南フランスの美しい景色を楽しむ充実したひと時となる…。」(シネマトゥデイ)

コッポラ家といえば有名な映画一家。本作の監督エレノア・コッポラは、巨匠フランシス・フォード・コッポラの妻ということになる。1936年生まれだから今年81歳。本作で長編監督デビューしたのが80歳の時だからすごいエネルギーだ。主人公アンの「映画プロデューサーの妻」という設定は多分に自分を投影したものだろうか。

そんな本作は、映像で綴った短編小説、またはエッセイ…といった趣き。カンヌからパリまでのわずか2日間のドライブ旅行を題材に、大人の恋愛未満のちょっとしたトキメキが描かれている。一見「オシャレ映画」というつくりながら、肩の力が抜けているというか、さらっとした粋な味わいに仕上げている。大事件は起こらないけど、旅する二人の微妙な関係から目が離せない。気持ちよく見ることができた。映像もとてもきれいで、観光ロードムービーとしても楽しめたね。

物語はアンの視点で語られていく。舞台はフランス、ドライブの相方はフランス人男性。当然、「アメリカ人の考えるフランス人のイメージ」がこの映画を支えているといっていい。それは何かといえば、ずばり「恋愛体質」であり、「人生を謳歌するスタンス」であり、反面「ちょっといい加減」みたいなところだろう。特に、恋愛については、自分もよく「フランス=恋愛大国」という言い方をするのだが、アメリカ人もほぼそう思っているようだ。そうしたフランス人のイメージが実体化したような存在がジャックということになる。

日本人からすると、アメリカ人もフランス人も「西洋人」と一くくりにしがちだけど、そこにはさまざまな差異があるところがおもしろい。また、フランスという国そのものが持つ歴史や文化の奥行きに対するアメリカ人の憧れみたいなものもあるのかもしれない。アンはジャックを通して「異文化」「異国」に接する旅をしたことになる。彼女は大学生の娘がいるくらいだからおそらく年齢は50代。しかも既婚者。そんな落ち着いた大人の女性の心が動かす仕掛けとしてはよく出来ていると思った。

その一方で、その「アメリカ人の考えるフランス人のイメージ」をフランス人自身はどう思うのだろうか。やはり、ステレオタイプだと感じるのだろうか。あるいは、多少誇張はあるけど大体あんなもんだよと受け止めるのか。これもちょっと興味あるね。

視覚的な部分では、要所々々でアンが撮影する写真を「静止画」としてインサートしていく手法がスマートに決まっていた。決して珍しいテクニックではないけど、使い方がこなれている。また、カメラそのものも小道具としてうまく生かされていた。小品ながら印象的な映画。見終わって疲れないところもいい。

(車の故障で川べりの昼食。アンの機転がなかったらどうするつもりだったのか…)
Bon

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2017年7月 2日 (日)

美女と野獣

■映画「美女と野獣」 渋谷 TOHOシネマズ

大ヒット中のディズニー映画。公開からすでに2カ月以上たっているのに、週末なんかは早々に「残席わずか」になってたり…。見に行った日も平日のわりに、お客さんけっこう入ってたね。

ストーリーはこんな感じ。
「ひとりの美しい王子が、呪いによって醜い野獣の姿に変えられてしまう。魔女が残した一輪のバラの花びらがすべて散る前に、誰かを心から愛し、愛されることができなければ、永遠に人間には戻れない。呪われた城の中で、希望を失いかけていた野獣と城の住人たちの孤独な日々に変化をもたらしたのは、美しい村の娘ベル。聡明で進歩的な考えを持つ彼女は、閉鎖的な村人たちになじめず、傷つくこともあった…。」(公式サイトより)

本作は1991年のディズニー・アニメーション版をもとに実写化したもの。基本的なストーリーや音楽はほぼそのままだ。名作といわれているアニメ版、とりわけアラン・メンケンの素晴らしい音楽を踏襲しているわけだから、よほどのことがないとはずしようがない感じ。実際に見終わっても手堅く仕上がっているなという印象を受けた。

その一方で、新たな何かが付け加えられ、より魅力的に生まれ変わった…とまではいえない気もした。アニメ版の公開からすでに26年。劇場で見た記憶のある世代は、当時10歳だったとしてもすでにアラフォーに近づいている。その意味では、「新作として若い世代に見てもらう」ことが最大の目的だとするならば、これはこれでいいのかもしれない。ただ、アニメ版に新鮮な衝撃を受けた者としては、予想の範囲内だったという意味での食い足りなさはあったかな…。

もちろん細かいところでは現代化の試みもみられる。代表的なのは、アフリカ系のキャラやLGBTのキャラが導入されている点。これについては、近世以前のフランスという舞台設定を考えると、そこまでやる必要あるのかな…という気もした。ただ、代表曲「Beauty and the Beast」自体もコンテンポラリーなR&B音楽の要素をかなり取り入れたナンバーだったりするわけで、音楽がフュージョンしてるんだから配役もフュージョンでごく自然…なのかもね。

もう一点の大きめの違いといえば、ベルの母親がいない理由が明らかになるところだろう。けっこう悲しいエピソードだが、結果的には彼女の長年の疑問を野獣が解消してあげたことになり、ベルと野獣の気持ちが近づく一つのステップとなる。物語の丁寧な運びという意味ではよかったのではないだろうか。

音楽でも新曲が何曲か追加されている。その中で印象に残ったのは野獣のソロナンバー「Evermore」かな。歌い上げるミュージカルらしい曲で聴き応えがあった。

ちなみに、「美女と野獣」はブロードウェイの舞台版も見ている。20年ほど前、ニューヨークに行った時、ちょうどやっていたので当日券で見た。その日のベル役はデビー・ギブソン。80年代にアイドルシンガーだった頃、けっこう好きだったので、実物を見られてうれしかったのを覚えている。…とまあ、けっこう好きな作品なので、必要以上に厳しく見てしまったところもあるかもしれない。全体的にはいいリメイクだと思う。

(実写版の野獣は怖い、醜いというより意外にイケメンだったりして…)
Bab

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2017年6月23日 (金)

吉田類の「今宵、ほろ酔い酒場で」

■映画「吉田類の『今宵、ほろ酔い酒場で』」

BS-TBSの「吉田類の酒場放浪記」、たまに見る。年末年始なんて延々と再放送してるからずーっと見続けたりして…。映画版ができたというので、ふらーっと見てまいりましたよ。

ストーリーはこんな感じ。
「運のない人々が集う居酒屋チャンスに、変装した人気アイドルの山下絵里子(松本妃代)が現れる(『居酒屋チャンス』)。妻子が帰省中の会社員・日暮義男(伊藤淳史)は、一人で飲もうとどつぼ酒場に足を踏み入れる(『どつぼ酒場』)。詐欺の容疑が掛かっている会社社長・森本勝也(吉田類)は、通りすがりの居酒屋に入り…(『ふるさと酒場土佐っ子』)。」(シネマトゥデイ)

お店が舞台のテレビ番組の映画化、しかもオムニバス形式…とくれば、たぶん映画版『深夜食堂』みたいな雰囲気かな…とある程度予想していた。実際、この予想は大体当たっていたと思う。基本は酒場にやってくる人にまつわる人情話の三本立である。

まず最初のエピソードは、仕事にも恋愛にも行き詰っていたアイドルが、見知らぬ居酒屋で元気をもらって帰っていくという話。時間の関係もあってか、本当にそれだけであまり深掘りはない。まあ、冒頭なんで軽いジャブみたいなものだろうか。

二番目のエピソードは、人のいいサラリーマンが不気味な酒場で出会う変わった人々に振り回される話。人情話というより、『世にも不思議な物語』のような「都市伝説ミステリー」をコメディー風味で…みたいなテイストだったかな。

最後のエピソードだけは、やや変則的となる。主人公が一杯の酒を飲み干す間に思い出す「少年時代の故郷の光景」がメインなのだ。酒にまつわる懐かしい記憶。大人がうまそうに飲む酒に興味を持ち、こっそり飲んでみるが、まったくおいしくない…という、多くの人が経験しているであろう体験談などが、美しい自然に囲まれた四国山地の集落を背景に描かれる。ここは一気に物語の広がりが生まれており、まさに映画版ならではの展開といえそうだ。酒場の親父の対応や酒を飲み終えた主人公の選択なども人情話らしくてよい。

もともとフィクションとしての舞台装置がしっかり確立されている『深夜食堂』に対して、「酒場放浪記」はお店探訪のドキュメンタリーであり、そのイメージを壊さないように新たな物語(ストーリー)を一からつくるのはなかなか大変だったのではないだろうか。そう考えると、小品ながらまあまあ無難な仕上がりであり、吉田類ファンなら楽しめるだろう。とりわけ、最後の『ふるさと酒場土佐っ子』のエピソードは、作品の映画としての魅力度を一段アップさせていると思った。

(高知出身の類さんの土佐弁、雰囲気あってよかったね)
Rui

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2017年6月 9日 (金)

メッセージ

■映画「メッセージ」 日本橋 TOHOシネマズ

何か見たいなということで、劇場で何度も予告編を見ていたこの作品を。

ストーリーはこんな感じ。
「巨大な球体型宇宙船が、突如地球に降り立つ。世界中が不安と混乱に包まれる中、言語学者のルイーズ(エイミー・アダムス)は宇宙船に乗ってきた者たちの言語を解読するよう軍から依頼される。彼らが使う文字を懸命に読み解いていくと、彼女は時間をさかのぼるような不思議な感覚に陥る。やがて言語をめぐるさまざまな謎が解け、彼らが地球を訪れた思いも寄らない理由と、人類に向けられたメッセージが判明する…。」(シネマトゥデイ)

原題は「ARRIVAL」。そのまま訳せば「到着」である。異星人(?)とのファーストコンタクトものSFであることをダイレクトにイメージさせるタイトルだ。実際に物語はそんなストーリーを追っていく。わざと派手な演出を抑えたかのような画面が適度な緊張感を生んで非常によい。SF好きならかなりわくわくさせられる導入部である。

しかし、これは単なるファーストコンタクトものではなかった。物語が進むうちに、本作はまったく未知の文明と接触することで人類が次の階梯に一歩を踏み出す瞬間を描く、まさにSFでしか成しえない哲学的、文明論的シミュレーションを内包した作品であることに気づかされるのだ。単なる…ではなく、これこそ「真の」ファーストコンタクトものというべきだろう。

従って、よくある「異星人到着もの」のようなドンパチはほとんどない。ドンは一回だけ、パチも一瞬である。SFXもそうお金がかかっているようには見えないが、それはそこが本題ではないからだろう。本題でないといえば、登場する異星人(?)は、まんまタコのような形態で、そいつがなんとスミを吐いて文字を描く設定になっている。いまさらのタコ宇宙人! しかもスミを吐く!…なんて、普通に考えればお笑いでしかない。要は「そんなことはどうだっていい」という宣言なのである。これは別に宇宙人の姿かたちで驚かせる物語ではない。だから、わざと典型的なありがち造形にしてみせたのだ。

では本題はどこなのか。主人公の言語学者たちが「外国語を学ぶと思考方法が変わる」という学説について会話する場面がある。ロジックは言語によって規定されるから、違う言語を学ぶことで見えてくる世界が変わる…ということだ。その上で、接触してきた異星人の言語を分析すると時制がないことがわかる。どうやら彼らにとって、時間は過去から未来への一方向に流れ去るだけのものではなく、物理的な空間のように俯瞰できるものらしい…。そう考えると、件のタコ型エイリアン(ヘプタポット)は、異星人ではなく「異次元人」なのかも? ただし、そこもまたそう重要なポイントではなく、異星人でも異次元人でも未来人でも何でもいいのである。

この本題の部分に主人公が気づいていくプロセスが、実に映画的で巧みな技法によって表現される。あまりにも巧みで見事なので、最後まで誤解したままの人も一定数発生してしまうくらいだ。Yahoo映画のレビューを見ていると、勘違いしたまま感想を書いている人も散見された。しかし、決して難解というわけではないと思う。むしろ、何度も繰り返し見て考える面白さがある作品だと評価してもいいのではないだろうか。

結末にも深いひねりが加えられている。文明の階梯を上がるということは新たな苦しさとセットだということだ。たとえば、現代の人類は科学を手に入れた結果、それまではまったく必要なかった地球環境破壊の心配をしなくてはいけなくなっている。同様に、ヘプタポットがもたらした言語の力で時間のしばりから解放されたとしても、今度は未来が過去のことのようにわかってしまった上で、人はどのように生きていけばいいのか…という苦しみが生じることになる。

本作はそうしたSFならではの哲学的シミュレーションの荒々しさと、映画らしい詩的かつ人間的な結末の美しさをうまく融合させている。SF=ドンパチではないということを改めて理解させてくれる、とても洗練された秀作だと思った。

(音楽、音響効果も素晴らしい。ぜひ劇場でその音場を体験したい作品でもある)
Messe

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2017年5月30日 (火)

皆はこう呼んだ、鋼鉄ジーグ

■映画「皆はこう呼んだ、鋼鉄ジーグ」 有楽町 ヒューマントラストシネマ

少し前に新聞で紹介されていたのを読んで。いちおう予告編はネットでチェックしてから見に行った。イタリア映画。

ストーリーはこんな感じ。
「テロが頻発するローマ郊外。チンピラのエンツォ(クラウディオ・サンタマリア)は、ひょんなことから人知を超えた力を手に入れる。ある日、エンツォが慕う“オヤジ”が殺害されてしまう。オヤジの娘のアレッシアは、エンツォを日本製アニメ『鋼鉄ジーグ』の主人公・司馬宙だと思い込み、二人の距離は少しずつ近づいていく。そんな中、闇の組織のリーダー・ジンガロ(ルカ・マリネッリ)の脅威が迫る…。」(シネマトゥデイ)

『鋼鉄ジーグ』は1970年代の日本のロボットアニメ。原作は永井豪。…と言われてもほとんど記憶になかった。その後、イタリアでも放送されてかなり人気があっただそうだ。事前に読んだ新聞記事でも、本作を「ロボットアニメなど日本のサブカルチャーから影響を受けた作品」と紹介していた。

ただ、まず断っておきたいのは、本作は『鋼鉄ジーグ』の実写化でもないし、『鋼鉄ジーグ』を知らないと楽しめない(あるいは知っていた方がより楽しめる)ような映画でもないということ。日本のアニメなどに影響を受けているのは確かだろうが、直接作品に取り入れているのではなく、インスパイアされた上で自分ならではの作品世界を作っている…というのが正しいのだろうと思う。
どこの国でもそうだろうが、今や世界中のさまざまなコンテンツがテレビやネットを通じて流れ込み、それが地元の伝統や文化と交配され、各地で独自の新しいカルチャー空間を生み出している。それこそがまさに「現代」であり、この映画は「イタリアの現代」を感じさせてくれる作品の一つなのだろうという気がした。

映画全体の印象は「ノワール」に近いかな。主人公エンツォをはじめ、登場人物はほぼ全員チンピラやヤクザ、あるいはその関係者だ。イタリアというとマフィアというイメージだが、スーツをびしっと着込んだ「ゴッドファーザー」に出てくるようなマフィアではなく、ストリートファッションに身を包んだ、本当にチンピラとかヤクザと表現したくなるような、街の悪党みたいな連中ばかりである。
軸となるストーリーは、麻薬の密輸で行き違いが生じ、それを手伝っていたエンツォたちは、組織から横領の疑いをかけられて追われるようになる…というもの。いってみれば犯罪組織の内部抗争ものだ。そこに超人的な力を得たエンツォがどう行動するか…というテーマが絡んでいく。彼はアメリカンヒーローのようにすぐに正義に目覚めるわけではない。本作はいわば「ヒーロー誕生」の前日譚であり、「エピソード0」といったところである。

結論からいえばヒーローもの的な痛快さというよりも、現代イタリアのインディー映画(だと思う。少なくとも大作映画ではない)が描く世界観のおもしろさで見せられた感じだったかな。全体的にはノワール映画らしい暗さや閉塞感みたいなものを漂わせつつ、細かいところでは妙にユーモラスな表現やリアルな暴力シーン、ややグロいシーンなどもある。心を病んでる娘との奇妙な恋愛感情などもなかなか切ない…。
このへんのノリには、サブカルチャー的というか、世界共通のインディー映画らしいモードとイタリアらしいんだろうなと思えるところが混然となっていて独特の味わいを生み出している。深掘りすると永井豪作品のダークな側面との共通点もあるのかもしれない。

ちょっと気になったのは、主人公が不死身の身体を手に入れたのは、不法投棄されていた放射性物質に触れたからという設定。ちと単純すぎるというか、放射能への誤解を招きかねない表現という気もするのだが…あまり細かいところを突っ込むのも野暮というものだろうか。

(この観覧車のシーンは美しい。見終わった後でじわじわくるような場面が多かったね)
Jeeg

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