映画・テレビ

2018年7月19日 (木)

バトル・オブ・ザ・セクシーズ

■映画「バトル・オブ・ザ・セクシーズ」 日比谷 TOHOシネマズ シャンテ

タイトルではまったくピンときていなかったのだが、予告編を見て、「そうか、こういう話なのか」ということで。1970年代前半のアメリカのテニス界に題材をとった実話もの映画。

ストーリーはこんな感じ。
「女子テニスプレーヤーのビリー・ジーン・キング(エマ・ストーン)は、女子選手の優勝賞金が男子の8分の1であるなど男性優位主義に不満を募らせていた。仲間たちとテニス協会を脱退した彼女は、女子選手の地位向上を掲げた女子テニス協会を立ち上げる。そんなビリーに元男子チャンピオンのボビー・リッグス(スティーヴ・カレル)が男性優位主義代表として対決を申し込んでくる。それには家庭不和に悩む彼にとっての人生逆転の意味合いもあった…。」(シネマトゥデイ)

タイトルの「バトル・オブ・ザ・セクシーズ」。直接的には、1973年に行われた男性優位主義を掲げるリッグスとウーマンリブの代表としてのビリー・ジーンによるテニスの男女対決試合が、「The Battle Of The Sexes」(性別間の戦い)と銘打たれて世界各国に中継されたことに由来している。

予告編もその試合に至るまでの両者の因縁を軸に対決を大いに煽る内容となっており、実際に本作はその勝敗のゆくえも含めてじっくり描き出している。しかし、映画を見終わると、このタイトルが実はダブル・ミーニングであることにも気づかされる。

主人公のビリー・ジーンは既婚者であったが、ある時ひょんなことから同性愛にめざめるのである。厳しいテニスツアーを戦いながら、その一方では自分の中に芽生えた新しい愛にとまどうビリー・ジーン。これも実話であり、映画はその様子も並行して描いていく。その後、彼女は離婚して同性愛者であることを公表、LGBTが社会に認められるための運動にも積極的にかかわっていくことになる。つまり、「バトル・オブ・ザ・セクシーズ」は男女同権を求める戦いであると同時に、「多様な性のありかたをめぐる戦い」とも読めるのである。

いずれもうっすらとは知っていたが、詳しい知識はほとんど持たない出来事だった。それを映画を通して知ることができ、とても興味深く見ることができたと思う。1970年代前半のアメリカの雰囲気を再現した映像やファッション、音楽などもとてもよい。キャストもいずれも実在の人物にきっちり寄せたビジュアルに仕上げているが、その中では主人公ビリー・ジーンを演じたエマ・ストーンだけが「かわいさ2倍増し」くらいのバランスになっていて、視覚的にもおいしい部分である。

そんなわけで全体的には好印象の作品ではあったが、やや消化不良かなと感じるところもあった。もともと「バトル・オブ・ザ・セクシーズ」というタイトルに二つの意味を持たせるような内容であるのに加え、さらに男性優位主義の代表リッグスの背景にもかなりの目配りをしている。本作を見る限りでは、彼は信念からの男性優位主義者だったわけではなく、すっかり「過去の人」扱いされている境遇への反発から、男性優位主義に乗っかる形でもう一花咲かせたいと思っただけのようにも見える。リッグスを単純な悪役にしなかったところは好感が持てるが、約2時間の映画に収めるには若干手を広げすぎた印象も受けてしまった。惜しい感じである。

それにしても1970年代といえば、今からわずかに40数年前にすぎない。それなのにアメリカでさえ、「女の居場所は台所と寝室で十分」みたいなことを社会的に地位のある人までが堂々と発言する時代だったのだ。それに比べれば現代はずいぶん改善されていると言わざるをえない。性差別も人種差別も障がい者差別も、今は「とりあえず」いけないことになった。もちろん、それをポリコレ棒などと揶揄したりする声もあるにはあるが、野放しになっていた時代に比べればずいぶんましというものだろう。

こういう映画を見ることで、「昔は良かった」ではなく「昔はひどかった」ということを確認することは重要だと思う。そのひどさがやわらいできた背景には多くの人たちのバトルがあった。作中でおそらくLGBTであろうスタイリストが言う、「時代は変わる。今、君が変えたようにね」という言葉をかみしめたいものである。

(1970年代のテニスルックは今よりもずっとカラフル)
Battle

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2018年7月 9日 (月)

ハン・ソロ/スター・ウォーズ・ストーリー

■映画「ハン・ソロ/スター・ウォーズ・ストーリー」 新宿 TOHOシネマズ

「ローグ・ワン」に続くスターウォーズ・スピンオフ・シリーズ。公開翌週にさっそく見てきたよ。平日午前と土曜午後の2回。平日の朝はともかく土曜はいい感じにお客さん入ってたんじゃないかな。

ストーリーはこんな感じ。
「惑星コレリアで生まれ育ったハン・ソロ(オールデン・エアエンライク)は、銀河で一番のパイロットになる夢を抱いていた。コレリアを出るため、ひとまず帝国軍に志願したハンだったが、チューバッカ(ヨーナス・スオタモ)という相棒を得て脱走に成功。危険な世界に通じたベケット(ウディ・ハレルソン)のチームに加わり、自由を手に入れるために莫大な金を生む危険な仕事に挑む…。」(シネマトゥデイ)

このところのスターウォーズ・シリーズの作品は年末、つまり冬の公開が多い。しかし、初期の頃は夏場が多かったのではないだろうか。少なくともいちばん最初の「エピソード4」は夏休みに見に行った記憶がある。そんなわけで、やっぱ冷房の効いた映画館で見るスターウォーズはいいね~!…と気分をアゲながら上映を待ったのだった。

結論からいえば十分おもしろかった! アメリカでは興行成績がイマイチで、今後のスピンオフ・シリーズの計画にも影響が出るのでは…みたいなニュースも伝わってきているが、いったい何がいけなかったんだろうと不思議な気持ちになるくらいだ。

たしかに本作はアウトローであるハン・ソロの若き日を描いた作品だけに、スターウォーズらしい「正と邪の全面対決」という構図の物語ではない。登場人物は多かれ少なかれ悪の世界に足を突っ込んだ連中がほとんど。ただのチンピラにすぎなかったハン・ソロが、そんな海千山千たちを相手にしだいに頭角をあらわしていく…という話であり、むしろノワールもの、マフィアものなどに近い世界となっている。

しかし、作風は重厚というよりは軽快。それこそスターウォーズらしいテンポのいい演出でどんどん物語を進めていく。犯罪組織に属する者同士のだましたり裏切ったり…といった人間ドラマもあるが、それもそう深刻ぶることなく痛快アクション映画の範疇にうまく収めている。スターウォーズ・シリーズとはいえ「スピンオフ」なのだから、たまにはテイストの違う話が挟まっていてもそれはそれで楽しいし、むしろ引き出しが増えてよかったと感じるくらいだ。

見せ場では前半の列車強盗のエピソードが圧巻。惜しむらくは、後半にそれ以上の迫力あるシーンがないことだが(あえていえば鉱山惑星からの脱出の場面だろうか)、細かい見せ場は最初から最後まで波状攻撃的に配置されており、物語のスピードはまったく落ちない。脚本のバランスはけっこういいと思った。

また、「エピソード4」に続くさまざまなネタもきちんとフォローしてあって、ファンなら一瞬たりとも気を抜けないのもうれしいところだ。チューバッカとの出会い、代名詞ともいえるブラスターを手にする場面、ミレニアム・ファルコンを巡るランド・カルリジアンとの因縁…などなど。マニア向けと言われるかもしれないが、そもそもスピンオフなんてマニアのためのものだろう。もっと楽しみたかったらお勉強してからまた来てねでも全然いいと思うし、もちろん何も知らなくても平均以上には楽しめる仕上がりにはなっていると思う。

音楽では劇中音楽だが、ドライデン・ヴォスのヨットで開かれているパーティー(ハンがキーラと再会するところ)の音楽がなかなか。あそこはスターウォーズ・シリーズに数々あるバンドが登場する場面の中でもトップクラスといっていいのではないだろうか。歌い手も音楽も妖しい感じで非常に雰囲気があったね~。

そんなハン・ソロのスピンオフ。終盤の展開を見ていると続編は大いにありそうだ。というかないと困る。ハンの過去でもう一つ忘れてはいけないのがジャバ・ザ・ハットとの仕事に失敗して借金だからけになるというエピソード。そこのピースが埋まらないと「エピソード4」にはきれいにつながっていかない。また、「エピソード1」で死んだはずのダース・モールもさくっと再登場したりしている。これはまた別のスピンオフ(オビ・ワン?)に続く話なのかもしれないが、気になるところだ。もちろんハンとキーラとの関係も終わったわけではない。「ハン・ソロ2」、ぜひお願いしたいね!

(弾帯をつけて銃を背負うチューバッカもなかなかカッコいい)
Han2

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2018年6月13日 (水)

OVER DRIVE

■映画「OVER DRIVE」 新宿 TOHOシネマズ

公開は6月1日。ところが10日ほどでいきなり上映規模が縮小されていた。大作でもない邦画の場合仕方ないのかな。見に行った日も平日とあってお客さんは少なめだったね。

ストーリーはこんな感じ。
「国内トップクラスのチームが火花を散らすラリー選手権シリーズ。スピカレーシングファクトリー所属のドライバー檜山直純(新田真剣佑)は、攻めの走りこそが勝利の決め手と信じて無謀な走りを繰り返す。彼の兄でチーフメカニック兼エンジニアの篤洋(東出昌大)と直純はレースのたびに衝突。チームは険悪な空気に包まれる。ある日、直純のマネジメントを務めることになったエージェントの遠藤ひかる(森川葵)がやってきた。」(シネマトゥデイ)

自動車レースを題材にした映画はわりと好きなので、目にとまると見に行くようにしている。本作は「ラリー」を扱った作品。今まであまり見たことがないし楽しみ…ということで。

見終わっての印象は「全体的に弱い」。まずは脚本かな。ありがちな設定、ありがちなキャラクター、そしてありがちな展開…。今までどこかで見たことがあるような要素しか出てこない。ずいぶん以前にくりーむしちゅーのテレビ番組で「ベタドラマ」という企画をやっていたが、まさにそんな感じ。しかも、それぞれのエピソードの書き込みが浅いので登場人物たちがみんな薄っぺらく見えてしまう。

演出にも冴えが感じられなかった。ヒロイン的配役の森川葵が単なる狂言まわしになってしまっているし、主役の兄弟二人(東出昌大、新田真剣佑)の演技はピリピリしてばかり。彼らを暖かく見守る社長役の吉田鋼太郎は本当に見守ってるだけでまったく物語に絡んでこない。さらに、本作の「キモ」であるレースシーンや選手権の展開はすべてナレーションで語らせて終わりという淡白さ。レースの映像自体は迫力あるんだけど…。

そもそものところで「ラリーの魅力」が映画の中心にないところも気になったかな。メインエピソードは兄弟の確執と和解で、その背景には三角関係の恋愛がある。イケメン俳優が主演だから客層は女性、だったら恋愛が題材でいいんじゃね…的な安易なプロデュースがそこにはなかっただろうか。せっかくのラリーが舞台の「書割」になってしまっている。これではレースの映画が見たくて行った客は浮かばれない。

(トータル的にはB級映画ということになるのかな…)
Over

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2018年6月10日 (日)

アイ、トーニャ 史上最大のスキャンダル

■映画「アイ、トーニャ 史上最大のスキャンダル」 新宿 角川シネマ

春先から予告編が印象に残っていて、見たいなと思っていた作品。ところが、公開後なかなかタイミングがあわず、劇場も角川シネマに変わっての最終上映日にようやく見ることができた。

ストーリーはこんな感じ。
「貧しい家庭に生まれ、厳格な母親ラヴォナ(アリソン・ジャネイ)に育てられたトーニャ・ハーディング(マーゴット・ロビー)。フィギュアスケートの才能に恵まれた彼女は、血のにじむような努力を重ねて、アメリカ代表選手として1992年のアルベールビル、1994年のリレハンメルと二度のオリンピックに出場。ところが、元夫のジェフ・ギルーリー(セバスチャン・スタン)の友人がトーニャのライバルだったナンシー・ケリガンを襲い、彼女はフィギュア界から永久追放されてしまう…。」(シネマトゥデイ)

ナンシー・ケリガン襲撃事件にオリンピック本番での靴紐切れ事件…。お騒がせフィギュアスケート選手、トーニャ・ハーディングのことは確かに覚えているが、振り返ってみればもう20年以上も昔の話なのだった。

本作もまた実話をもとにした映画ということになる。スタイルはけっこう凝っていて、役者が実在の人物を演じながら、過去を回想してインタビューに答える「疑似ドキュメンタリー」をベースとしている。その合間に回想シーンがはさまるのだが、その過去のシーンの中でも、登場人物たちが突然、画面の「こちら側」に向かって話しかけてきたりする。それが妙に生々しく、つくりごとではない迫力につながっている。

物語は、4歳で本格的にフィギュアスケートを習うことになったトーニャのエピソードで始まる。娘に才能を見出した母親のキャラクターがいきなり強烈で先制パンチをぶちかまされる。あれは「厳格」というのとはちょっと違うだろう。とにかく強引で、一方的で、なおかつ暴力的。態度も言葉遣いも最低だ。ウェイトレスの仕事で稼いだお金を全部トーニャのスケートのレッスンに注ぎ込んだ…というと、娘の才能を伸ばしてやろうとした良い母親のようだが、ひょっとしたら子どもを有名選手にして大金を手にするための投資だったのかもしれず…。果たして真意はどこにあったのだろうか。

そんな専制君主的な母親のもとで育ったトーニャ自身もちょっと変わった性格になってしまい、周囲にも自然とイカれたやつらが集まってくる。ボーイフレンドから後に夫、さらに元夫となるジェフはとんでもないDV男だし、そいつが連れてきたボディガードは妄想&虚言癖のある引きこもりオタクときている。こいつらが後にケリガン襲撃事件を引き起こすことになる…。

出てくるキャラの色が次から次へと濃すぎてクラクラするのだが、これがまた実話ときているからよけいにすごい。映画の最後に実際のニュースやインタビューの映像が使われていて、それらを見ると、登場人物たちはルックスも雰囲気も実物そっくりに仕上げていることがよくわかる。一定以上の年齢のアメリカ人にとっては飽きるほど見せられたワイドショーの映像がそのまま再現されている感覚かもしれない。そう、つまりこれは現実の、実在の「アメリカ」なのだろう。

本作は、ワイドショー的なスキャンダルを題材にしつつ、アメリカの白人低所得者層のリアルを感じさせてくれる映画ではないかという気がした。主人公たちはお金もないが、それ以上に教育がなく、社会からは疎外されていて、希望もない。近年、トランプ大統領の岩盤支持層として日本でも少し知られるようにはなってきたが、たぶん1990年代からすでにそんな層は生まれていたのだろう。

トーニャ自身は並はずれたスケートの実力でそこから浮上できるチャンスをつかむが、結局は周囲に足を引っ張られ、また彼女自身の思慮の足りなさも手伝って、その機会を失ってしまう。型破りな存在を認めない社会や業界・団体の硬直性も当然あった。

物語のラストはフィギュア界から追放されたトーニャが、女子プロボクサーとなってリングで闘うシーンだ。相手ボクサーに殴られて宙を舞うトーニャと、女子フィギュアで世界初のトリプルアクセルを跳んだ輝かしいトーニャがオーバーラップする。切ないが同時にそれでも生きるしたたかさも伝わってきた。

映像的には、やはりスケートの場面が素晴らしい。氷上を滑る主人公をカメラが伴走しながら追いかけていくシーンはいったいどうやって撮影したのだろうと思わされる。初めてトリプルアクセルを決めるシーンも実際の映像そっくりに撮っていて、見ていて思わず「やった!」と言いたくなった。色の濃い役を演じたキャスト陣も全員良かった。音楽の使い方もこなれていたし、エンターテインメントとしても素直に楽しめる。

あらためてアメリカの実話もの映画製作の底力を感じさせられる一本だろう。

(マスコミの問題も古今東西いろいろあるよね…)
Itonya

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2018年5月14日 (月)

タクシー運転手 ~約束は海を越えて~

■映画「タクシー運転手 ~約束は海を越えて~」 新宿 シネマート

久しぶりの韓国映画。ゴールデンウィーク前から公開されているのにまだまだ人気で、日曜の朝9時30分の回でも、チケットを買う列がフロアに納まらず、階段ホールまで伸びていたね。

ストーリーはこんな感じ。
「1980年の韓国。ソウルで11歳の娘を男手一つで育てながらタクシーの運転手をしているマンソプ(ソン・ガンホ)は、高額の報酬に目がくらみドイツ人記者・ピーター(トーマス・クレッチマン)を乗せて光州に向かった。軍隊の検問をくぐり抜け、二人は封鎖されていた光州に入る。ピーターは『危険だからソウルに戻ろう』と言うマンソプの言葉を聞かずに取材を始める…。」(シネマトゥデイ)

軍政時代の韓国で、軍隊が市民に発砲し多くの死傷者を出した「光州事件」を題材とした実話もの映画。近年の欧米映画は実話をベースとした作品に充実作が多く、個人的にもけっこう好んで見ているのだが、この韓国映画もなかなかの手応えだったね。最初から最後まで目が離せず一気に見せられてしまう。日本でも根強くヒットしている理由がよくわかった。

本作は、光州事件の全体像を真正面から扱うのではなく、軍隊によって封鎖されていた光州に潜入取材を試みるドイツ人記者と、彼をソウルから現地まで送迎したタクシー運転手の2日間に焦点を絞っている。

この切り取り方がまず素晴らしい。光州事件とは何だったのか…といった大上段からの見解は打ち出さず、ただただ登場人物が見た「事件のごく一断面だけ」をポンと観客の前に提示している。しかし、その断面の生々しさにより、かえって事件の異常性や深刻さがくっきりと浮かび上がってくる。記者と運転手という外部から来た者の目を通して語ることで、観客もまた当時の光州をリアルタイムで訪れているような感覚を味わうことができるのだ。

さらに、その外部の目にも「複眼」を用意しているところがとてもよく考えられていると思った。記者の視点は「軍事政権下で何が起こっているのか…」というジャーナリストの視点だ。一方、運転手は庶民の視点である。彼は「韓国ほど暮らしやすい国はない」と何度も言う。軍政下にあり、彼自身も決して裕福とはいえない生活をしているのに、「暮らしやすい」と思ってしまう。まさに小市民的なことなかれ感覚なのだが、その彼でさえ光州の事件現場を見ると「これでいいのだろうか?」と疑問に感じはじめる。

人権問題とか、そういう主語の大きい話ではなく、一市民としてもしこういう事態に巻き込まれたら…という想像力を刺激する効果を生んでいる。

もちろん、「物語」としてもとてもよく練られている。冒頭から主人公の運転手のキャラクターを伝えるエピソードがテンポよく続く。セコくて調子がよく、ずる賢いのに人情味もあって、困っている人を放っておけない…。一人娘とのエピソードもよく効いている。この人物設定が本当に自然にできているので、光州に向かう往路にしても、いったんソウルに帰りかけながら再び危険な光州に逆戻りする復路も、彼の行動にいちいち納得できるのである。このあたりはまさに脚本のうまさだろう。

そうしたキャラクターを演じる俳優陣も素晴らしかったね。主演のソン・ガンホはもとより、光州のタクシードライバーたちや通訳の学生など本当にいいキャラぞろい。一場面しか出てこないような人にもみんな個性があって見終わった後まで強く印象に残る。あえて惜しかったといえば、記者役のトーマス・クレッチマンだろうか。韓国人キャストがみんな好演だっただけに、ちょい薄味に思えてしまった。もっと強く人間味を感じさせる演技でもよかったかもしれない。

もう一つ、本作の特徴をあげるなら、韓国現代史で最大の悲劇といわれる光州事件を扱いつつも、コメディ的要素や人情話、クライマックスでのカーチェイス…など、エンターテインメント性に配慮した作風に仕上げていることだろう。これに関しては事件の本質を伝えるためにもっとシリアスにやってほしかったという意見もあるようだが、本作のように間口を広げて多くの人に知ってもらうという選択肢は決して間違っていないと思う。

これは、戦場カメラマンが「目の前の悲惨な子供を救うべきか、その写真を世界に配信することを優先すべきか」で悩むというが、それに近いかもしれない。本作は「おもしろかったよ」と気軽に薦めやすいからこそヒットしていると思うし、それによって光州事件について「もっと調べてみたい」と思う人が増えればいいという考え方なのだろう。実際、自分も事件のアウトラインくらいは知っていたが、本作を見てからネットで改めて記事を探して読んだりした。

事件そのものについて、軍隊やメディアについて、さらには韓国の社会について…いろいろなテーマで語りたくなる、そのきっかけとしては十分な力を持つ映画だと思う。

(1980年の光州市の市街地風景などはどうやって撮影したのだろうか…)
Taxi

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2018年5月 8日 (火)

レディ・プレイヤー1

■映画「レディ・プレイヤー1」 新宿 TOHOシネマズ

ゴールデンウィーク後半の4連休に何か見たいな…ということで。もちろん人気作なので前日に予約。朝9時からの回でようやく席をとれた。最前列までぎっしり満員だったね。

ストーリーはこんな感じ。
「2045年、人類は思い浮かんだ夢が実現するVRワールド『オアシス』で生活していた。ある日、オアシスの創設者の遺言が発表される。その内容は、オアシスの三つの謎を解いた者に全財産の56兆円とこの世界を与えるというものだった。これを受けて、全世界を巻き込む争奪戦が起こる…。」(シネマトゥデイ)

予告編の段階では見る気はほとんどなかったのだが、いつも参考にしている新聞の映画評が「最高点」(めったにない)をつけていたので、「意外に傑作?」と思って劇場に足を運んだのだった。

結論からいうと「見てる間はおもしろかった」。駄作とかそういうものでは全然ないのだが、映画評で最高点がつくほどのものなのだろうか…というのが正直な印象かな。今までにないものを見た!という高揚感とか、劇場を出た後まで尾を引く余韻とか…そういうものはあまりなかった気がする。

物語の軸になっているのは、仮想世界を舞台とした宝探し。もし宝が邪悪な組織の手に渡ってしまうと、主人公たちの愛する世界は利益至上主義の過酷な世界になってしまう。世界を守るためにも主人公たちは宝探しを成功させないといけない…。ここまでは、ファンタジーや魔法の世界に迷い込んだ主人公が冒険の末にその世界を守る…というよくあるストーリーだろう。

本作のおもしろいところは、その仮想世界と現実世界が密接にリンクしていて、行ったり来たりを繰り返すあたり。主人公たちは現実ではうだつのあがらない貧民だ。その彼らがひょんなことからチームを組み、遺産狙いの宝探しを組織ぐるみで行っている大企業と対峙する。したがって、戦いは仮想世界の中だけでなく、現実世界でも展開される。ゲームの中ではたとえ殺されてもキャラクターが失われるだけだ。しかし、現実世界では本当に「命を奪われる」危険もある。非常にスリリングな展開となっていくのである。

アクションシーンなどは仮想空間ならではのスピード感と迫力があって見ごたえがある。ただ、宝につながるカギを見つけるための謎解きが、「はあ、そうなんですか」という感じで、やや唐突。主人公がオタクだからわかったということになっているが、やはり何か伏線を用意して、それがまわりまわって謎解きに結びつく…といったある種の鮮やかさが欲しかった気がした。

さらに言うなら、バーチャルワールドを守るために命まで張った主人公たちが、最終的には「やっぱリア充最高!」となってしまうのも微妙な感じ…なのだけど、一般向けエンターテインメントだとそこがいちばんいい落としどころなのかもね。オタク向けなら、最後のカーチェイスあたりでアルテミスのサマンサが死んでしまい、莫大な財産をつぎ込んで仮想世界の中に彼女のキャラクターを作ってつきあってます…みたいなダークな結末でもいいかなという気もする。

バーチャルワールドを舞台にうだつがあがらない主人公が戦ってヒーローになる…というストーリーだと、アニメ映画の『シュガーラッシュ』(2012)を思い出した。比較するようなものではないのかもしれないが、どちらかというと『シュガーラッシュ』の方が個人的には楽しい。

(VRを使ったこういうゲーム、いずれ出来そうではあるね)
Rp1

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2018年4月11日 (水)

ちはやふる -結び-

■映画「ちはやふる -結び-」 新宿 TOHOシネマズ

2016年春に「上の句」「下の句」の前後編形式で公開された作品の続編。封切られてやや時間がたったのだけど、ライムスター宇多丸氏をはじめ映画評も上々。上映終了になる前に見ておかないと…ということで。

ストーリーはこんな感じ。
「綾瀬千早(広瀬すず)と若宮詩暢(松岡茉優)が、競技かるた全国大会で激闘を繰り広げてから2年。かるたから離れていた綿谷新(新田真剣佑)も、高校でかるた部を作り、全国大会で千早たちと戦うことを決意する。一方、新入部員も加わり、三年生にとって最後の全国大会をめざす瑞沢高校かるた部だったが、予選を前に突然、部長の真島太一(野村周平)が辞めてしまう…。」(公式サイトより)

前作から約2年。物語の中で高校一年生だった主人公たちも本作では高校三年生になっている。後付けで制作された「後日譚」だけに、下手をすると蛇足になってしまいかねないところだが、「高校生として最後の全国大会」をクライマックスにもってくることで、主人公たちの青春の一区切りと映画の終わりをシンクロさせ、三部作を美しく締めくくるストーリーとしてきれいに完結させている。見はじめると一抹の心配はあっという間に吹き飛んで、物語の流れに引き込まれてしまった。

本作の良さはまず脚本が非常によく練られていることではないだろうか。「なんでそうなるかな?」的な無理な展開がほとんどなく、物語はクライマックスに向けて力強い推進力を保ち続ける。
とりわけ、本シリーズの二大要素である「競技かるた」と「千早をめぐる恋の三角関係」のバランスが非常によい。それどころか、恋愛問題が引き金となっていったん退部してしまった太一の「放浪」が、結果的には競技かるたにおいても、一回り大きく成長するためのプロセスになっていく…という展開はもう見事としかいえない。二つの要素を両立させるだけでなく、完全に融合させているのである。

本作はいわゆる群像劇ではあるが、あえて主人公を一人選ぶなら、やはり太一ということになるだろう。ヒロインを見つめる主人公…という構図は「上の句」と同じである(「下の句」では太一の視点はいったん後退し、千早と詩暢のライバル関係にフォーカスが移っている)。つまり、三部作の最後を再び一作目と同じ構図に戻すことで、映画版「ちはやふる」という世界の円環をきっちり閉じてみせている。これも、見終わった際の爽快感につながっている。

この他にもうまいところはいくつもある。最大の山場である決勝戦の最後の最後に、まさかの「運命戦」における太一のジンクスが再びクローズアップされるところ。そのことがわかった瞬間、太一が放浪中に出会った新たな師・周防とかわしていた会話の意味がわかるところ。その周防をはじめ登場する何人もの新キャラの個性を簡潔なエピソードで提示していく手際の確かさ。また、千早の宿命のライバルと思われた若宮詩暢を本作ではコメディリリーフ的な役どころに変更し、「下の句」の二番煎じになるのをうまく回避しているところ。そのわずかな出番でも存在感を示す松岡茉優の素晴らしさ! もちろん、2年間でたしかに成長した姿を見せてくれる前作からのキャストもとてもいい。主人公たちの家族が一切描かれないところも脚本の思い切りのよさだろう。

逆に気になった部分はほんの少しだけ。まず、國村隼の原田先生は全国二位になるくらいの強豪だったのだが、前作でそこまですごい存在として描かれていたっけ? なんとなく町道場の師範くらいのイメージだったのだが…。もう一つは、急いで決勝戦に駆けつけた太一の衣装が他のメンバーと同じく着物だったこと。どこで用意したのだろうか? まあ、その方が絵になるのは間違いないのだが…。

見終わってふと気づいたのは「アラタ」「タイチ」「チハヤ」と主人公たちの名前が「しりとり」になっていること。こうして並べてみると、新と千早の間に太一がいる構図で、これは本シリーズの恋の三角関係そのもののようでもある。原作ファンの間ではとっくに有名な話なのかもしれないが…。

(広瀬すずだけが突出してないところも本作の魅力かもね。前作を超えた続編!)
Chiha2

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2018年4月 4日 (水)

ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書

■映画「ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書」 新宿 TOHOシネマズ

予告編を見たのか、新聞の映画評を読んだのか、どちらか定かではないのだけど、なんとなく記憶にひっかかっていた作品。あまり予備知識を持たずにふらりと。

ストーリーはこんな感じ。
「1971年、ベトナム戦争は泥沼化し、アメリカ国内では反戦の気運が高まっていた。国防総省は戦争について客観的に調査・分析した極秘文書を作成していたが、ある日、その文書が流出。ニューヨーク・タイムズが内容の一部をスクープする。ライバル紙に先を越されたワシントン・ポストの編集主幹ベン・ブラッドリー(トム・ハンクス)は、残りの文書を独自に入手、全貌を公表しようと奔走する。ポストの発行人キャサリン・グラハム(メリル・ストリープ)は、政府を敵に回す記事を本当に出すのか、報道の自由を懸けた“決断”を迫られる…。」(公式サイトより)

これもまた実話もの映画。1970年代の初頭が舞台なのだが、今の日本でこれほどタイムリーな題材があるだろうか…というくらい、「昔の話」という感覚ではなく、まさに「今」、われわれにも突き付けられている問題としてリアルに見ることができる。

邦題にもなっている「ペンタゴン・ペーパーズ」とは、アメリカ政府がベトナム戦争について分析した極秘文書である。政府はベトナム戦争が「勝てない戦争」だとかなり早い時期から認識していたにもかかわらず、政治家たちのメンツや思惑などから、そのことを国民に公表せず、戦争を継続していた。もしもっと早くこの情報が公開されていたら、多くの死ななくてもすんだ人、傷つかなくてもよかった人たちが助かったはずなのだ…。

この文書の存在を報道するかどうかのせめぎあいが物語の軸なのだが、新聞の編集主幹ブラッドリーではなく、女性発行人(社主)のグラハムを主人公にしたところが脚本のうまさだろう。ブラッドリーの場合は、ジャーナリストとしての信念から「報道すべき」と決まっているので、さほど葛藤はない。しかし、亡き夫から名門新聞社を受け継いだばかりのグラハムは、素人経営者と周囲からなめられながらも、やっとの思いで資金調達のための株式公開にこぎつけたところ。もし「極秘文書」を記事にして、スパイ防止法や共謀罪で起訴されたら、投資家からは見放され、新聞社は経営危機に陥ってしまうだろう。さあ、どう判断すべきなのか? このあたりは一種のサスペンスでもあり、社会派の実話ものでありながら、しっかりエンターテインメントとしても成立させている。メリル・ストリープ、トム・ハンクスという大物俳優ががっぷり組んだスター映画として見ることもでき、このあたりはやはりスピルバーグ監督ならではの達者な目配りというべきだろう。

さて、本作を見終わってどうしても考えざるをえないのは、今の日本における公文書をめぐるさまざまな問題だろう。政策決定の過程を検証するために重要な文書が「みつからない」「廃棄した」、さらには「改ざん」…。たしかに、今の日本の状況は明らかにおかしいのだが、「権力が都合の悪い情報を隠す」のはどこの国、いつの時代でもあることなのだ、ということが本作を見ると改めてわかる。権力は「この機密は国家の安全のために重要だ」と必ず言うだろうが本当なのか。「国家の安全」ではなく、単に「政権の安全」のためだけに秘密にされていることも多々あるのではないか。

「安全のためなら秘密など知らなくてもかまわない」という考え方もあるだろう。しかし、それでは「すべておかませしますのでよろしく…」という『おまかせ民主主義』になってしまう。やはり、最終的には国民がチェックするという姿勢を持つことが本来の民主主義の根幹だろう。そして、国民がチェックするにはまず広く情報公開することが不可欠だ。そうなった時に報道機関、マスコミの果たす役割は大きい。報道機関で働く人たちにとってはその志の原点を問われる作品だろうし、それ以外の人もそれぞれが自分とマスメディアの関係を考えるきっかけとなる映画ではないだろうか。

あと、意外と見逃せないと思ったのは「司法の判断」。本作でも最高裁が新聞社を支持する判決を出すところがクライマックスになっているが、もし司法も権力の中に取り込まれてしまっていたら…まったく逆の結末となっていたことになる。健全な民主主義を運営していくことがいかに難しいか…。

(原稿はタイプライターで手打ち。記者から印刷工まで職人ぞろいのカッコよさも!)
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2018年3月24日 (土)

花筐/HANAGATAMI

■映画「花筐/HANAGATAMI」 ポレポレ東中野

『大林的戦争三部作一挙上映』の三本目は、2017年12月に公開された最新作。これも最初の公開時には見ることができていなかったので、今回ちゃんとした大きいスクリーンで鑑賞する機会を持てたことには本当に感謝である。

ストーリーはこんな感じ。
「1941年春、佐賀県唐津に暮らす叔母(常盤貴子)のもとに身を寄せることになった17歳の榊山俊彦(窪塚俊介)。大学予科に通いながら、美少年の鵜飼(満島真之介)やお調子者の阿蘇(柄本時生)らと“勇気を試す冒険”に興じる日々を送っていた。肺病を患う従妹の美那(矢作穂香)に恋心を抱きながらも、女友達のあきね(山崎紘菜)や千歳(門脇麦)とも“不良なる青春”を謳歌している。そんな彼らもいつしか戦争の渦に巻き込まれていき…。」(シネマトゥデイ)

舞台は佐賀県唐津市。本作もまた地域にねざした「古里映画」であり、地元自治体や文化庁といった行政の後援も受けている。しかし、「唐津くんち」という大きなお祭りのシーンがある以外は、唐津である必然性をほとんど感じさせない物語、映像であることに改めて驚かされる。全編がまさに「大林映画」以外の何ものでもない魔術的な時空間。いわゆるご当地映画的な配慮一切なしのやりたい放題! ライムスター宇多丸氏が大林監督について、「こんな映画を撮っている人は世界中のどこにいない」と断言するように、文字通り唯一無二のミラクルな世界が振り切れている。
しかも、クランクイン直前に監督自身の大病が発覚し、「余命宣告」をされながらの状態で、この生命力にあふれた映画を完成させたのだという。いや、むしろこれが最後になるかもしれないという思いが、すべてを叩きつけるような圧倒的なエネルギーを生んだのだろうか…。

「大林的戦争三部作」という観点から見ると、本作は戦争と直接向き合う割合はいちばん小さいような印象を受けた。本筋は、あくまでも「文芸映画」であり(原作は檀一雄の小説『花筐』)、肺病や戦争といった「死」を身近なものとして感じていた時代の「青春」を描いた物語である…というのが見終わった時の第一印象だった。

「青春」というもっとも生命の輝きに満たされているはずの時代に、「死」を身近に感じることの矛盾。その苦悩から生まれたものこそが「文学」だったのだと思う。本作でも登場人物の何人かが胸を侵されている。当時、結核は死の病だった。そこにさらに戦争が影を落とす。もちろん、それ以前の時代にも病はあり、戦いはあった。しかし、広く人々が「近代的自我」に持つにいたったのは明治を経て、やはり大正から昭和初期だったのではないだろうか。「他の誰でもないおのれとして生きたい」と思った時に、立ちふさがったのが結核と戦争だった。青春はそれを否定された時に、さらに妖しいばかりの輝きを放つ。本作の「めまい」そのもののような映像は、登場人物たちの生きようとするエネルギーとそれが許されない状況の葛藤を象徴しているように感じられた。

本作はキャストにも特徴がある。とくに大学予科生たち。役年齢よりも10歳、20歳も年上の俳優たちを起用している。これについては賛否あるだろうが、おそらく監督は当時の学生たちの現代よりもはるかに老成した内面を表したかったのだろうという気がする。人工的な映像が連続する映画だし、それもまたありなのかもしれない。満島真之介、柄本時生あたりは十分その範囲におさまっている。ただ、長塚圭史となるとどうなのか。ちょっと疑問もわいた。また、窪塚俊介は17歳の少年らしい表情を意識すると、なんとなくお笑いの鈴木Q太郎に見えてしまう場面も…。むしろ、もっと大人っぽく演じた方が少年らしい純粋さが出たのではという気もした。

タイトルの「花筐」は能の演目であり、本作も「序破急」という能特有の構成で描かれている。作品中にも能の謡が随所に挿入されている。そんなわけで、能の「花筐」のあらすじも読んでみたのだが、本作との直接的な関りはあまりよくわからなかった。「花筐」とは「大切な持ち物」の象徴らしく、劇中にもタバコ、篠笛、鯛の飾りもの、人形、カメラ…などいろいろな小道具、持ち物が登場する。ただ、それらがストーリー上で決定的な役割を果たすというわけではないようだ。このあたりは檀一雄の原作には描かれていたりするのだろうか(原作は未読)。

いずれにしても本作はやはり映画館のような、途中で何にも邪魔されない環境でじっくりその世界に浸りたい作品だと思った。時間も長めの2時間49分だが、とくに中盤以降はその長さを感じさせない。さまざまなシーンがふとした時にまた脳裏に浮かんできそうな強烈な印象を残した。

『大林的戦争三部作一挙上映』、長尺作品ぞろいだが、短期間に集中して見ることができ、2010年代の大林映画の魅力を遅まきながら感じることができた。監督は余命宣告の限界を超え、「まだまだ新作を作り続ける」と意欲満々とのこと。近作もこれからの新作もすべてが見逃せない必見の作品であることは間違いないだろう。

(矢作穂香さんのこの世のものとは思えない美少女っぷり。これもまた大林映画!)
Hana

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2018年3月22日 (木)

野のなななのか

■映画「野のなななのか」 ポレポレ東中野

予定が変更になって急に時間ができたので、再び『大林的戦争三部作一挙上映』へ。この作品も2014年の公開時には見逃していたもの。約4年遅れで見ることに。

ストーリーはこんな感じ。
「北海道芦別市で古物商を営む元病院長の鈴木光男(品川徹)が、3月11日の14時46分に亡くなる。92歳だった。葬儀のために鈴木家の親族が芦別に集ってくる。そこに清水信子という謎の女(常盤貴子)が現れた。看護師で光男の孫のカンナ(寺島咲)たちは、彼女を通して1945年に起きた旧ソ連の樺太侵攻の史実とその際に光男が体験した出来事を知る…。」(シネマトゥデイ)

前作「この空の花 -長岡花火物語」が「押しの大林」だとすると、本作は対照的な「引きの大林」ではないだろうか。あるいは「動」と「静」という具合に対比させることもできるかもしれない。やはり巨匠は同じことを続けたりはしないのである。

たしかに本作も、普通の映画と比較すると相当にヘンテコリンな作品であるのは間違いない。しかし、「この空の花」を見た後だと、「お、今回は一転してストレートに攻めてきたな」という印象を受ける。上映時間は、けっこうな長尺だった前作よりもさらに長い2時間51分。その時間を贅沢に使って、奥行きの深い物語をじっくり織り上げていく。本作もまた見終わった時にその長さをあまり感じない。もはや完全に大林ワールドの時間軸に慣らされてしまったというか…。「この空の花」では、そのダイナミックなエネルギーに圧倒されつつも、「もう少し引いた表現でも見たかった」という思いも残ったのだが、本作はまさにそうした感想を持った観客にも大いに納得できる作風となっているのではないだろうか。

本作もまた、北海道芦別市を舞台とする「古里映画」のシリーズである。その土地々々の戦争秘話を題材にする構造は前作とほぼ同じだが、本作は「反戦」と同じくらいに、というかそれ以上に大林監督の「死生観」を強く押し出した作品となっている。「誰もが誰かの生まれ変わりではないのか」という問いかけは、宗教的な輪廻転生思想というよりも、死者(過去に生きた人たち)がいるから今、ここに私たちがいるのだ…という生命の連続性を賛美する考え方のよう。登場人物の多くが「鈴木家」の一族であり、鈴木光男の生命を受け継いで、今や大きな樹木のように枝を伸ばし、葉を繁らせたファミリーとなっているのはその象徴ではないだろうか。そして、その生命がもっとも輝く時間である「青春」への強烈なノスタルジー! 絡み合った物語の謎に引っ張られて見ていくうちに、観客はそうした大林的哲学の陰刻をきざまれていく。まさに「映画による文学」といっていい気がした。

キャストでは、二人の若い女優の印象が鮮やかに残った。カンナ役の寺島咲さん、かさね役の山崎紘菜さん。寺島咲さんは実質的に主役といってもいいだろう。大林監督の秘蔵っ子ということで近年の作品では常連らしい。とても柔らかい表情と演技に惹きつけられた。一方の山崎紘菜さんはTOHOシネマズの幕間映像でおなじみだが、女優としてはこれまでさほど意識したことがなかった。でも、本作ではいたずら好きの子猫みたいな活発な存在感が見事に輝いている。この二人は演技で絡むシーンも多く、対照的な存在感がお互いを引き立てていたんじゃないかな~。

また、役者ではないが、随所に挿入されるパスカルズのシーンも印象的だった。アコースティックでオーガニックな音楽を演奏しながら野山を歩いていく姿は、時に葬列のようにも見え、また一列になって歩いていく様子は、命をつないでいく人間の営みを象徴しているようにも見える。同じものが見方を変えれば生にも死にもなる。これもまた大林的死生観につながっているのかもしれない。

(劇中に頻繁に登場する「中原中也」の詩。中原もまた医師の息子だった)
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