書籍・雑誌

2012年4月20日 (金)

小説 上杉鷹山

■「小説 上杉鷹山」 童門冬二(集英社文庫)

少し前にテレビで「上杉鷹山」をとりあげた番組を見て、「そういえば本持ってたな…」と思って再読してみました。前回一度読んだだけだったし、テレビで改めて全体像をおさらいしていたので、より興味深く読めましたね。

内容はこんな感じ。
「九州の小藩からわずか十七歳で名門・上杉家の養子に入り、出羽・米沢の藩主となった治憲(後の鷹山)は、破滅の危機にあった藩政を建て直すべく、直ちに改革に乗り出す。―高邁な理想に燃え、すぐれた実践能力と人を思いやる心で、家臣や領民の信頼を集めていった経世家・上杉鷹山の感動の生涯を描いた長篇。」(「BOOK」データベースより)

タイトルに「小説」とついているように、上杉鷹山を題材としつつも、完全な伝記ではなく、フィクションの要素も盛り込んだ作品。脇役たちのサイドストーリー部分がそうだし、上杉鷹山自身に関するエピソードでも、話がスムーズに流れるように、多少前後関係を変えてあったりもするようだ。
巻末に実在の上杉鷹山の年譜が載ってるので、比較するとそれがどこなのかわかる。たとえば、藩の人材育成のために設立した学校「興譲館」の指導者として学者・細井平洲を招き、彼をを国境まで出迎えたのは鷹山46歳の時のものだ。しかし、本作では20代前半の時のエピソードとしている。他にも、同様の「改変」は何点かであるようだ。だから、あまり「歴史の本」としては読まない方がいいのかもしれない。ただ、上杉鷹山の事績を知るための「とっかかり」と考えれば、とても読みやすいし、本質はきっちり押さえた本なので十分おすすめできると思う。

さて、上杉鷹山といえば、破綻寸前の米沢藩(上杉家)の財政を立て直し、殖産興業を成し遂げたことで知られる。江戸時代の人でありながら、近代的な思考や柔軟な改革精神を持ちあわせた人物であり、その舞台を今日の企業や自治体に置き換えても、リーダーシップの見本として大変参考になるものといえる。
いってみれば日産に乗り込んだカルロス・ゴーン氏が見事にその経営を立て直したようなものだが、ゴーン氏が社長就任時に実績十分の経営者であったのに対して、上杉鷹山(当時は治憲)が他家から養子に入って家督を継いだのは弱冠17歳の時である。彼は当主となってすぐに改革に着手する。しかし、上杉家といえば上杉謙信を祖先に持つ名門の武家である。そこに他家から来た若者がいきなり「改革」を行うと宣言したのだから、これはもう「抵抗勢力」が黙ってはいない。そこから先は小説を読んでもらうのがいちばんだけど、硬軟の顔を使い分ける鷹山は若年ながら、まったくおそるべき政治家である。このあたりは実に痛快に読める。

本作は、鷹山が抵抗勢力を切り崩し、その徳と愛による政治を米沢に根づかせていくところに重点が置かれているのだが、先日見たテレビ番組では、隠居した後もいっそう改革に力を入れた(というか、むしろ継続的な改革に取り組むため、参勤交代のある当主の座を次世代に譲り、自分は米沢に常駐したというのが本当らしい)ことも強調されていた。小説では、そのあたりの話はエピローグ的な扱いであまり詳しくは書かれていないけど、さらにじっくり調べてもおもしろそうだ。機会があれば、今度は史実ベースの鷹山の評伝や改革の全体像をとらえた本を読んでみたい気がした。

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2012年4月 5日 (木)

西域伝

■「西域伝 大唐三蔵物語」(上・下) 伴野朗 (集英社文庫)

単行本での刊行は1987年。今回読んだのは1990年の文庫版。現在では絶版みたいで、アマゾンで見ると中古本が「1円」(+送料)みたいな感じですね。

物語はこんな感じ。
「唐の国禁を犯し憧れの西城へ。13歳で出家し、真の仏法を求める三蔵法師・玄奘。限りない憧憬の地・天竺をめざし、妖術士たちが暗躍する大地を進む。壮大な歴史ロマン。」(Amazon紹介文より)

三蔵法師の天竺への旅…というと「西遊記」がすぐ思い出されるわけだけど、これはその三蔵法師・玄奘の生涯を、史実をベースに小説化した「玄奘伝」である。当然のことながら孫悟空も猪八戒も出てこない。
本書の特色は、まず歴史の教科書みたいな記述が非常に多いことだろう。玄奘が誕生したのは唐の前の隋の時代。そこで隋が成立し、やがて唐にとってかわられるまでの歴史が、玄奘の幼年時代と並行して詳しく描かれている。でも、文体などは小説的なものなので読みにくさはない。むしろ歴史好きの人なら楽しんで読めるのではないだろうか。
全体のバランスからいうと、肝心の玄奘の西域への旅が始まるのが上巻のほぼ終わりごろ…とイントロがやたら長い印象も受ける。これはおそらく、「西遊記」のような「旅そのものがメイン」の玄奘物語がどうしても読み手の頭にあるせいだろう。実際には、旅に出てしまえばひたすら前に進むだけなので、そんなに波乱万丈があるわけでもない。通過する国の風物を書き並べても、専門家以外にはそう楽しめるものにもならないだろう。したがって、玄奘が天竺をめざした動機づけ、旅に出る前の苦労…などに重点を置いたともいえる。
ちなみに、上の紹介文にも「妖術士たちが暗躍する…云々」とあるように、歴史をきちんと書いた教科書的な記述が多いのに、同時に実際にはありえない伝奇小説的な味つけを大胆に加えているのも本書の特色である。…というか、たぶん伴野朗氏の歴史ものの特色なんだろうね。玄奘の命をねらう悪者「鬼道居士」の一味が出てくるほか、玄奘とイスラム教の開祖・マホメットが中央アジアのサマルカンドですれ違ったりもする。この二人が同時代人であること自体は史実だけど、小説の中で出会わせてしまうのは、歴史マニア的なお遊びみたいなものかもしれない。

肝心の玄奘の西域~天竺(インド)への旅については、下巻中心に詳しく描かれている。「西遊記」よりも当然リアルだし、インドに着いてからもどんな場所を訪れ、何をしたのか…など、あまり知られていない部分もわかっておもしろい。物語の中の旅程と巻頭の地図を照らし合わせながら読むと、玄奘の途方もない旅がより具体的にイメージできることだろう。
彼の旅を、現在の世界地図と重ねてみると、中国の新疆ウイグル自治区を抜け、キルギス、ウズベキスタン、アフガニスタン、パキスタン…という経路をたどって、相当大回りしてインドに入ったことになる。最終目的地はインドでも東寄りのガンジス河流域だから、距離からいえば海路を利用した東南アジアルートの方がかなり近かったはずだ。でも、玄奘は当初「密出国」という形をとらざるをえなかったので、大がかりな船は使えなかったのだろう。

楽しみながら玄奘の偉業とその時代背景を学べる一冊といえる。こういう勉強方法は楽しいね。

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2012年2月22日 (水)

美味礼讃

■「美味礼讃」 海老沢泰久 (文春文庫)

雑誌に連載されたのは1991年。手元の文庫版は1994年刊。これも再読ものですが、内容はしっかり覚えてましたね。覚えてても新鮮に読めて素晴らしい。まさに名作。

内容はこんな感じ。
「彼以前は西洋料理だった。彼がほんもののフランス料理をもたらした。その男、辻静雄の半生をえがく伝記小説。」(「BOOK」データベースより)

辻静雄氏は、日本最高峰の調理師学校といわれる辻調グループの創設者であり、同時に本格的なフランス料理を日本に初めて紹介した料理研究家(ガストロノーム)としても知られる。もともとは大阪読売新聞の記者だった辻氏が料理に関わるようになったのは、奥さんの実家が料理学校を経営していたからだ。この料理学校というのは、いわゆる花嫁修業の一つとして、若い女性に家庭料理を教えるような平凡な学校だったという。その学校がいかにして日本を、というより今や世界を代表するようなプロの調理師養成学校になったのか。本書はそのプロセスを描いたビジネスサクセスストーリーでもあり、また辻氏の人間性や美食に対する哲学にも迫った非常に奥深い内容の小説となっている。

物語はすでに成功をおさめた辻静雄氏が開くディナーパーティーのエピソードから始まる。数行読んだだけでもう止まらなくなるだろう。贅を尽くしたディナーの意味、そこに集う人々の背景や考え方、絢爛たる料理やデザートの数々、そしてホストである辻氏が抱える複雑な思い…。この一章だけで短編小説として十分成立しているような実に見事な導入である。

著者の海老沢泰久氏は、ドキュメンタリー小説の名手だけあって、物語の最後まで読み手の心を惹きつけて離さない。今では考えられないような事実も次々と出てくる。たとえば、昭和30年代ごろまで、一流ホテルの料理長クラスでさえ本当のフランス料理がどういうものか、ほとんど知らなかったのだという。当時のフランス料理は、せいぜい「舌平目のムニエル」であり、生のフォアグラもトリュフも日本では手に入らなかったのだから当然といえば当然なのだが…。しかし、辻氏は「本物の調理師を養成するにはこれではいけない」と考え、自ら本場のフランス料理を調査しに行くのである。1960年代といえば、まだ外貨持ち出し制限などもあり、海外旅行自体が庶民には手の届かなかった時代。そんな時代にフランスの各地をレンタカーで食べ歩くわけだから、そのへんの話がおもしろくないわけがない。もちろん、簡潔にして明瞭・明晰な海老沢氏の筆も冴えまくっている。内容もさることながら、著者の名文を堪能するという意味でも素晴らしい体験ができる一冊だ。

以前読んだ時には、こうしたフランス料理を探究し(後には日本料理も極める)、学校経営を成功させていく「動」の物語にまず興奮させられたのだけど、今回再読してみると、美食とは何かについて考え続けていた辻静雄氏の「静」の側面も改めて強く印象に残った。
美食とは何か。考えてみれば、私自身も本格的なフランス料理というものは食べたことがない。ホテルでの披露宴で出てきた料理がフランス料理っぽかったかな…というぐらい。たぶん今も多くの庶民がそうなんだと思う。作中でも「こんな誰も食べられないような贅沢な料理が何の役に立つというのだ?」という疑問を辻氏にぶつける人物が登場する。辻氏は「たしかにわれわれが作っている料理は無用のものだ。そのことは認めなくてはならない」という。だが、ではどうするのか…という問いには、「どうもしないよ」と答える。
こうなってくると、料理も芸術や哲学、最先端の科学の知見などに通じるものがあるような気がしてくる。日常生活にとっては一見無用のものでも、それらが世の中のどこかにあることで世界が豊かになっているもの。実用性だけで判断していると、世の中全体のキャパシティーが小さくなってしまうものだ。素晴らしい料理というのもそんなものなのかもしれない。

この物語の主人公、辻静雄氏は1993年に、そして著者の海老沢泰久氏は2009年に、それぞれ60歳と59歳で亡くなっている。素晴らしい仕事をしたのにあまりにも早すぎるといわざるをえない。

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2012年2月21日 (火)

いつか時が汝を

■「いつか時が汝を」 北方謙三 (中公文庫)

単行本が刊行されたのは1988年1月。手元にあった文庫版は1991年のものでした。再読ではありますが、はっきりいって初めて読むぐらいの感覚でしたね。

ストーリーはこんな感じ。
「アメリカ南西部。綿の実が弾け、夏の雪が降る田舎町。時計修理を請け負い、釣りとバラ作りを楽しみに静かな日々を送る私は、年に一度、特殊な仕事を引き受ける。過去を引きずりながら異国の町で暮らす男の生き様。珠玉のハードボイルド。」(「BOOK」データベースより)

アメリカを舞台にした日本人の「殺し屋」の物語。いわゆるピカレスク・ロマンということになる。本書が書かれた1980年代は、和製ハードボイルドや冒険小説などが非常な隆盛を誇った時代であり、もちろんピカレスク・ロマンもそのムーブメントの中で重要な位置を占めていたと思う。そんな黄金期の作品だけあって、本作も一気に読めるスタイリッシュなエンターテインメントだ。感情に流されることのないシンプルな文体。アメリカ内陸部の乾いた空気がページから立ち上ってくる。主人公の表の稼業でありタイトルにも通じる「時計」、趣味の「釣り」や「バラ栽培」、近所の少年との「警官ごっこ」…といった小道具類が醸し出す味わいもいい。すべてが意味ありげで、破滅的な終章に向けて淡々と緊迫感が高まっていく。まさに著者の手練の技を堪能できる。

「いつか時が汝を」というタイトルは、主人公が常に感じている、いつの日か追手が自分を殺すだろう…というある種の諦念を象徴する言葉である。彼は殺し屋なので、人を殺してきたこと自体については反省もしていないし、後悔もしていない。しかし、それが必ず報いを受ける行為だということは自覚している。暗黒の世界で生きる者の定めというべきか。

そんな本書が刊行された1980年代後半は、バブル景気の頂点に向けて国中が浮かれていた時期でもあった。世界から「ジャパン・アズ・ナンバーワン」などと称賛され、日本がかつてない栄光に包まれていた時代だ。そんな時期に、予期された破滅に向かって時を刻んでいくような本作の主人公はなぜ登場したのだろう。本書だけではなく、多くのハードボイルドや冒険小説が決してハッピーエンドではなかった。当時、悲劇的な結末を持つエンターテインメント小説が多くの読者に支持されたのはどうしてなのか。人々は好景気の中にどこか危うい空虚感を感じていたのだろうか。それとも現実が楽しいベクトルで満たされているので、物語の中ではそれとは正反対の気分を求めたのだろうか。

当時、私も下っ端とはいえバブル景気の真っただ中でハードボイルド小説や冒険小説を愛読していたのだけど、そのへんの感覚については定かな記憶がない。

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2012年1月12日 (木)

決壊

■「決壊」(上・下) 平野啓一郎 (新潮社)

初版は2008年6月。秋葉原で起きた無差別殺傷事件の直後に刊行されたことで話題になった本書ですが、雑誌連載は2006年11月~2008年4月。ブックオフお手頃価格で入手できたので読んでみました。

ストーリーはこんな感じ。
「2002年10月、全国で次々と犯行声明付きのバラバラ遺体が発見された。被害者は平凡な家庭を営む会社員・沢野良介。事件当夜、良介はエリート公務員である兄・崇と大阪で会っていたはずだったが…。」(「BOOK」データベースより)

著者の作品を読むのはデビュー作「日蝕」以来。これは中世ヨーロッパを舞台とした、いわゆる純文学らしい作品だったけど、本書はインターネットが普及した今日の日本における犯罪、家族、社会と個人…といったきわめて現代的な題材を扱った内容となっている。終盤まで犯罪の真犯人が分からない展開などはミステリ的でもあり、また細部まで緻密に書き込まれた長大な作品というところからは、初期の高村薫作品などを思わせるところもある。密度の高さとそのボリュームにもかかわらず一気に読ませる「力」のある小説であることは間違いないだろう。

最初にも触れたけど、本作は秋葉原の無差別殺傷事件との類似性が大きく話題になった。たしかに、ネット上での犯罪予告、社会の中で抑圧され孤立した人物が無差別的な大量殺傷を行う…という部分は、まさに秋葉原の事件を予言したものといってもいいくらいだろう。
私もそういう評判は知っていたので、まさにそれがメインの話なのだろうと思って読み始めたのだけど、実際に読み進んでいくと実は少し違っていた。確かに犯罪はとても大きな一要素ではあるのだが、本作の核になっているのは、「犯罪に巻き込まれたことによって崩壊していくある一家の物語」なのではないだろうか。

ストーリーは、沢野家の二人の息子が帰省してくる夏休みの描写から始まる。父親はすでにリタイアし、息子たちはそれぞれに独立している。長男は東大卒の優秀な国家公務員であり、次男は一般企業の会社員だが結婚して子供も生まれている。外から見ればごく「幸福そうな」一家だろう。しかし、父親は体調を崩しており、どうもそれがうつ病かもしれない…というところに、微妙な影が差している。そこから家族の人間関係の軋みが見え始める。お互いに考えていることがうまく伝わらない、相手が何を思っているのか分からないから疑心暗鬼が芽生えてくる…。
その家族の心の隙間に忍び込んだのが「悪魔」を自称する犯罪者だった。次男が事件に巻き込まれ惨殺されたことで、それまで家族の形をつなぎとめていたものが断ち切られる。すなわち、そこから始まる一家の崩壊こそが、タイトルにもなっている「決壊」ということなのではないだろうか。

この家族の崩壊が縦糸とするならば、横糸はもちろん犯罪である。この犯罪側にも、反社会的行動に一歩踏み出す「決壊」の瞬間があることは間違いない。しかし、読んだ印象としては、沢野家の崩壊ほど物語のメインではないので、圧倒的に書き込まれているという印象はなかった。むしろ、容疑者とされてしまった沢野家の長男(いちおう彼が主人公ということになるのだろう)を巡る警察の取り調べの在り方やメディアの報道姿勢、ネット上の風評…といった現代的な問題などともあわせて、家族を崩壊させる「外的要素」として描かれているような気がした。実際、犯罪も起こらず、警察の誤認捜査や嵐のようなメディアの報道やネットの風評などがなければ、沢野家はかろうじてその形を保ち続けることが出来たかもしれないのだから。

いずれにしても、学者や批評家が扱うような現代的であり、かつ大きなテーマに真正面から取り組み、しかもそれを大作のエンターテインメントとしても成立させてしまっている著者の力量には脱帽させられる。結末があまりにも徹底的であるため、救いがなさすぎるという意見もあるみたいだけど、個人的には衝撃と余韻という観点からはこれも「あり」ではないかという気がした。

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2011年12月13日 (火)

静かな大地

■「静かな大地」 池澤夏樹 (朝日文庫)

ちょうど1年ほど前に手に入れた雑誌「文藝」の「池澤夏樹特集」で、世界文学全集の編集を担当した著者が、「自作を入れるとしたら『静かな大地』」と言い切っているのを見て、この代表作を読んでみたいと思ったのでした。

物語はこんな感じ。
「明治初年、淡路島から北海道の静内に入植した宗形三郎と志郎。牧場を開いた宗形兄弟と、アイヌの人々の努力と敗退、繁栄と没落をえがく壮大な叙事詩。著者自身の先祖の物語であり、同時に日本の近代が捨てた価値観を複眼でみつめる。構想10年の歴史小説。」(「BOOK」データベースより)

まさに大河小説的な読後感。たしかに何十巻もあるとかいうわけじゃないけど、それに匹敵するようなどっしりした手応えを残す作品である。
物語は、病床で娘に昔語りをする父親の独白で始まる。宗形兄弟が北海道に入植する以前、淡路にいた頃の遠い遠い記憶だ。まだ江戸時代の名残が感じられる明治の初めに起きた騒乱が語られる。最初、それは夢の中の話のように心もとない。しかし、舞台が北海道に移り、幼かった兄弟が成長していくに従って、物語の骨格が徐々に見えてくる。おぼろげだった風景に焦点が合い、豊かな自然やいきいきとした人々の営みが色彩豊かに描かれはじめる。
本書は、まず第一にファミリーの物語だが、その中でも主人公格といえるのは、兄弟の兄である宗形三郎だろう。少年期から青年期に差しかかり、農業を学ぶために札幌の学校に入学した三郎の手紙で綴られる章は、明治の若者が輝かしい未来を信じて駆け出そうとする希望と高揚に満ちている。ここはとても好きな章だ。よく高度成長期が「夢があった日本」の代名詞のように言われるけど、実はもっと大きな希望に満ちていたのが、「坂の上の雲」を追いかけていた明治期だったのではないだろうか。
しかし、北海道が日本人にとって希望の大地だったその裏側には、昔からの土地を奪われたアイヌの存在があることも忘れてはならない。本書のもう一つのテーマは和人とアイヌの関係である。主人公の宗形三郎は、アイヌを排除しようとする多くの日本人とは異なり、アイヌと親交を深め、彼らとともに牧場を作り繁栄させていく。原野を切り拓いて牧場が出来上がっていく過程、活気のある共同生活、三郎がアイヌに育てられた娘エカリアンを妻にする瑞々しいエピソード…など、物語の中盤までは、日本人とアイヌのネガティブな歴史の中で、そこだけに光が射すような希望が感じられる。
しかし、後半に差しかかると、政治の力や内地の巨大資本などが三郎の牧場に忍び寄ってくる。そして結末は悲劇的である。真綿で首を絞められるように追い詰められていた三郎は、唯一の希望だった妻を失い、直後に自死してしまうのだ。その前後の様子などから察すると、彼は今でいううつ病だったのかもしれない。やがて牧場は解体され、後には嘆きだけが残る…。

この起伏に富んだ物語は、章ごとに次々と語り手を変えていくという凝った構成にもなっている。その中でも重要な語り手となるのが、三郎の姪(志郎の娘)・由良だ。本書は著者が自分の母方のルーツを小説の形で記録したという一面も持っており、由良のモデルは、著者・池澤夏樹氏の祖母に当たる。従って、宗形三郎は曽祖伯父(曽祖父の兄)ということになる。
本書は、このファミリーの興亡の物語を通して、日本に北海道という「フロンティア」があった時代を描いている。夢に向かって坂を駆け上っていく時代だが、そこに独自の文化も価値観も否定されてしまったアイヌという存在を重ねることで、時代の明と暗を映し出しているといえる。読後にずっしりした余韻が残るのは、一つの時代を表と裏から捉えているからだろう。

こうしたテーマが見えてくれば一気に読める作品だと思う。また、アイヌの風習やライフスタイルなどが詳しく調べられている労作でもある。アイヌ関係の本では「蝦夷地別件」(船戸与一)を読んだことがあったけど、これは江戸時代が舞台。日本社会に飲み込まれていく明治期のアイヌの歴史について書かれたものは個人的には初めてだったこともあり、非常に興味深く読めた。
自然に寄り添って暮らすアイヌのエコ的な価値観は、近代の名のもとにいったん排除されてしまったが、実は今また注目されるべき時が来ているのではないだろうか。そう考えると、明治の北海道と現代の日本はやはり「地続き」なのだと思えてくる。北海道に行ってみたくなる作品でもある。

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2011年11月17日 (木)

ロックとメディア社会

■「ロックとメディア社会」 サエキけんぞう (新泉社)

ちょっと時間があった時に書店をのぞいて何気なく手に取った一冊。パラパラ見てるうちに、「これはおもしろそう…」と思って即購入。

内容はこんな感じ。
「メディア社会は一寸先に何が起こるかわからない?! そのノー・フューチャーな性質を、ロック、ポップスの歴史から解き明かす。エルヴィス、ビートルズ、ヒップホップからアイドル、アニメまで…ロックの現場と『リアル』に向き合って生まれた、新しい“社会”の読み方。」(「BOOK」データベースより)

ミュージシャン、作詞家、プロデューサーとして有名なサエキけんぞう氏が、2010年に大学で担当した「メディア社会とロック」という講座をもとにした本。ロックは、発生当初の姿からどんどん変化し、また多くの派生ジャンルを生んできた音楽だけど、その多様化の背景には「メディア」や「社会」の変化があったのだ…という史観をベースにした、一種のロック史のテキストといえる。
そういう意味では、ある程度の音楽好きならすでに知っているロックの歴史を再度整理した本なので、そう目新しさはないと思うかもしれない。しかし、読み進んでいくと、さすがはサエキ氏というか、理論派ミュージシャンならではの鋭い分析が次々と展開され、ページをめくる手を抑えられなくなってしまう。私自身もけっこう理屈っぽい方の音楽ファンなので、音楽やその歴史についての本はわりと読んでいる方だと思うけど、これほど引き込まれたのは久しぶり。これは、現代のロックやポップスが好きで、なおかつその成り立ちに興味がある人にとっては必読の一冊といえるのではないだろうか。
内容は非常に多岐に渡り、こんなところまで…というぐらい目配りの利いた本なので、ポイントを絞るのが難しい。そこで、個人的に特に興味深く読んだ部分をいくつか書き出しておきたいと思う。

■「モッズ」の分析:ロックがここまで多様化できた要因の一つとして、1950年代から60年代のロンドンの若者カルチャーであるモッズの影響力をあげている。この章は知らなかったことばかり出てきて、まさに目からウロコ。
■「フェス」の成立:メディアとしての「ライブ」、特に「フェス」の歴史を振り返り、その意義を検討。また、クラブやディスコの成り立ちについて述べた部分もおもしろい。
■派生ジャンル:パンク、ニューウェーブ、テクノ、クラブ音楽、ヒップホップ…などロックから派生した各ジャンルの歴史とロックとの関係を整理。普段、なんとなく使ってるジャンル名称だけど、こうして成立していったのか…などと改めて勉強になる。
■「GS」の分析:日本語ロックの先駆けであったグループサウンズの再評価。なるほどね~と思わせられる。
■「アイドル」の再定義:日本におけるロックの現在形の一つとしてアイドルというジャンルにもしっかり目配りしているのも本書の特色。その中で「アイドル」とは何かを再定義しており、エルヴィスやビートルズはいつからアイドルでなくなったのか…が考察される。その結果、アイドルとは「ミーハー的な人気を戦略的に得ようとし、かつそれを良しとするする存在」ではないかとする。
■各国のアイドル:日本のアイドルの特殊性は、その「ロリータ性」にあるとし、ルーツとしてのフランスのアイドルの重要性に触れる。また、K-POPアイドルについては、日本のアイドルとは文脈を異にする「ディーヴァ」系のジャンルであると喝破。最先端のトレンドとして、地下アイドルを積極的に評価しているのも著者らしい。アイドルポップスに興味を持って長く聴いてきた私なんかにとってはとても刺激的な章。

…という感じで全編おもしろい本書なんだけど、80年代以降のアイドルや日本の音楽シーンについて書かれた部分では、やや冗長さも感じた。でも、これはおそらく私がその時代を体験して、知ってしまっているからなんだろうと思う。最初に書いたように、本書は大学での講義をもとにしたもの。その講義を聴いたのは主に20歳前後の若者である。彼らにとっては、80年代も90年代も「歴史」の中の出来事なのだから、きっちり説明してあげることにも意味があるのだろう。

また、終盤はインターネットというメディアで世界が結ばれたのに、各国のヒットチャートはなぜ融合していかないのか…という問いかけから、ワールドミュージック(これもロックが主に第三世界で普遍化したもの)やクラブミュージックに言及している。さらに、越境に成功した事例として「アニメ」(とその音楽)をクローズアップしているが、このへんになると詳細な分析は今後の課題なのかな…という気もした。いずれにしても非常に論点の多い本なので、落ち着いたら再読してみてもいいかなという気もしている。

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2011年11月 9日 (水)

幸福ロケット

■「幸福ロケット」 山本幸久(ポプラ社)

これはブックオフのお手頃価格シリーズ。初版は2005年。

物語はこんな感じ。
「ふたり、同じ未来を見てた。京成電車にガタゴト揺られながら。クラスで八番目にカワイイ『あたし』(山田香な子、小五♀)と、深夜ラジオ好きでマユゲの太いコーモリ(小森祐樹、小五♂)の可笑しくて切ない初恋未満の物語。」(帯より)

この著者の作品では、若手女お笑い芸人を主人公にした「笑う招き猫」を読んだことがある。とりたててスケールの大きい話じゃないんだけど、穏やかさとテンポの良さが共存してて、読後感がものすごく爽やかだった印象が残っている。
本書もその著者の持ち味は健在という感じの一冊。小学生が主人公なので子供が読んでもおもしろいと思うけど、大人だって十分に楽しめる要素満載である。主人公で語り手である「香な子」は、ふとしたことでクラスで席が隣の男の子と仲良くなる。でも、「初恋未満の物語」とあるようにその恋が成就する話ではない。微妙な関係なんだけど、そこに早くもライバル(?)が現れて、三角関係らしきものが発生してしまったりもする。
エピソードの一つ一つがおもしろく、あっという間に読み進んでしまうことだろう。そしてラストは…これ完全に「ベタドラマ」の展開だよなあ。でも、小学生がやってるからかわいくて全然OKという感じだし、実際そこまでのストーリーを追ってきてたらもう主人公に思い入れちゃいますよ。

さらに、脇も含めて登場人物がみんないいキャラしてるのもこの作者の持ち味。叔父さんとか担任の先生とか…。その登場人物たちを冷静に見てる「香な子」の観察眼もなかなかのものである。実は、彼女は中学受験をめざしてて、文京区にある有名大学付属の女子中学(お茶の水女子中?)なら合格間違いナシ…と太鼓判を押されてる、かなりデキル子。当然、大人顔負けの頭の良さなのだ。しかも、趣味は読書でお父さんの本棚から借りた「石の血脈」(半村良)とかを小五で読みこなしてしまったりする。あれ、内容的にはR-15ぐらいだと思うんだけど…女の子は早熟なんだよね~。

ところで、本書には「笑う招き猫」の読者なら思わずニヤリ…の細かい仕掛けもあったりする。小説でもこういう遊び心があると楽しいね。コンパクトな話だし映画とかにしやすい作品だと思う。いつか見てみたいな~。今だったらお父さん=堺雅人あたりだと豪華でいいよねえ。

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2011年11月 8日 (火)

日本ロック学入門

■「日本ロック学入門」 相倉久人 (新潮文庫)

古い本を特に意味もなくきっちり再読するシリーズ。初版は1986年。つまり今から25年前。

内容はこんな感じ。
「かつてロックは自由と反抗のシンボルだった…そして時代は変わり、『メッセージ』がポップな流れのなかに消えてゆくかに見えるいま、外国の模倣から始まった日本のロックの過去・現在・未来を、10人のミュージシャン~加藤和彦・宇崎竜童・井上陽水・細野晴臣・松任谷由実・坂本龍一・桑田佳祐・佐野元春・大沢誉志幸・ケラ~の肉声を混えてちょっとマジメに捉え直す。」(「BOOK」データベースより)

内容は、著者が雑誌などに寄稿した1960年代以降のロックの状況に関する文章と、本書のために行ったアーチストとの対談。ボリュームは対談部分の方がやや多いかな。この対談相手の顔ぶれは、大御所にはやや早いけどベテランの域に入りつつある大物から間違いなく当時のトップランナーといえるスター、さらには注目の新鋭まで…と目配りがきいてて、その時代の雰囲気が感じられるもの。ベテランから中堅は余裕の発言、若手はやっぱりけっこう突っ張ってる印象。

まあ古い本だし、細かいところにこだわってもしょうがないので、印象に残った部分だけ。まず、第II章は「日本語のロックが生まれるとき」がテーマ。今となってはラップでさえ日本語で全然OKだから、「日本語でロックが可能か」なんて議論があったこと自体、何がそんなに問題だったんだろう…と不思議な気がするけど、1970年代ぐらいまではけっこう真剣な論点だったようだ。
考えられるのは、60年代に盛り上がった「日本語ロックの先駆け」である「GS」が、最終的に歌謡曲の軍門に降ってしまったことがトラウマになっていたのかもしれない。いうまでもなく歌謡曲は産業音楽の代表格。「ロック=体制への反抗」という図式からすると、日本語で歌うと歌謡曲という体制に吸収されてしまうというイメージが強かったのではないだろうか。ただ、本書が出た1980年代中盤には、ほぼカタはついてたと思う。答は「日本語でロックは可能」。同時に、ロックから反抗という色はどんどんなくなっていくわけだが…。

ちなみに、現在でも唯一日本語化されてない音楽ジャンルといえばジャズボーカルだろう。理由はスタンダードが中心で、ボーカル曲のオリジナルが新たに作られることが少ないからかな。とはいえ、先年活動を休止した「Our Love to Stay(アワラブ)」のオリジナルなどは、ジャンルとしてはポップスに分類されてたけど、実質的には日本語によるジャズだったともいえる。技術的には、あらゆるジャンルで日本語化は可能になったのではないだろうか(受け入れる側の許容度が上がったというのもあるかな)。

第IV章では「音楽のつくり手と受け手が対等になっていく」ということが話題になっている。「スターがファンを引っ張った時代から、ファンが勝手にスターを作る時代に」変わりつつあるという話が出てくるんだけど、本書が出た1986年というのはおニャン子クラブのブームが最高潮に達した年でもある。音楽の分野で起こっていたことと、アイドルの分野で起こっていたことが実はシンクロしていた…というのは興味深い。本書ではまだほとんど触れられてないけど、その後、音楽の分野ではDJの影響力が非常に大きくなっていく。「音楽のつくり手が単に素材の提供者になっていく」というのは、まさにこうした流れを正しく捉えていたといえるだろう。

この本を読んだ少し後に、「ロックとメディア社会」(サエキけんぞう)を読んだんだけど、内容にけっこうつながる部分もあっておもしろかったな。そっちの感想はまた別途。

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2011年9月 4日 (日)

フライ、ダディ、フライ

■「フライ、ダディ、フライ」 金城一紀(角川書店)

2005年に映画化された時に見ていた作品。映画はかなりおもしろかったですよ。だから、これも「原作も読んでみようかな…」と思いつつも、なんとなく読みそびれてた一冊です。ブックオフお手頃価格にて購入。

ストーリーはこんな感じ。
「いたって平凡な人生を歩んできた47歳のサラリーマン、鈴木一。妻と娘を大切に思い、築き上げてきた日常は、とある日、あっけなく崩壊した。その失意のさなかに、鈴木は奇妙な高校生のグループと知り合う。」(Amazon紹介分より)

この映画化作品はとてもよくできていた。現代が舞台のストーリーにもかかわらず、どこか寓話的・神話的なイメージもあり、一つの世界として完結していた気がする。だから、すぐに原作を読もうという気にならなかったのかもしれない。
で、今回初めて読んでみての第一印象は…。あの映画は、原作を非常に忠実に映画化していたんだな、ということはとてもよく分かった…ということだろうか。そういう意味では、映画と同様にこの小説もおもしろい。でも、映画→原作という順番で読む時に期待する、「映画以上の物語の密度」というのは、それほど強くは感じられなかったかな。

ところで、これも一種の「習い事もの」ということになるだろう。そこで、私の習い事ものがおもしろくなるためのセオリーに照らして、少し考察してみたい。
まず、習い事ものでは、「動機づけ」が非常に重要。この点はパーフェクトに近い。最愛の娘を傷つけられ、なおかつ相手は権力に守られてのうのうとしている。それどころか、スポーツエリートという名誉まで手に入れている。こいつを倒すためならどんな苦しい練習にも耐えてやる…という展開は、動機づけとしてはばっちりだ。
次に、「コーチのキャラクターとその再生というサブストーリー」である。習い事もののコーチ役は、できれば一度やさぐれている方が良い。本来は天才的な才能を持っているのだが、何かの理由で表舞台から引っ込んでいる、みたいな。しかし、主人公のコーチを務めることによって、忘れていたものを取り戻し、自らも再生していく。このサブストーリーが充実していると、物語にうんと奥行きが出る。
本作のコーチ役は、在日朝鮮人の少年、朴舜臣(パク・スンシン)だ。舜臣がケンカがやたら強くなったのは、やはり在日という生い立ちによるものだ思わせる描写が中盤に出てくる。街でからまれたチンピラを徹底的に叩きのめすシーンだ。もう少しあとでは、ベトナム戦争に韓国特殊部隊の一員として従軍した叔父から「生き残る方法」(格闘術?)を教えてもらった…といった話もある。ワケありのコーチという点はなかなか良いが、主人公の戦いが舜臣自身の再生につながったのかどうか…までは分からない。
最後に「トレーニングの描写」だ。急にうまくなったり強くなったり…では習い事ものの醍醐味は出ない。その点、本作はトレーニングの厳しさは十分に描いている。47歳の運動不足のサラリーマンが、わずか1カ月でそれなりに戦える体になるのかどうか…は、多少疑問だけど。
こういった条件は、映画化作品にもきっちり反映されている。だから、映画がおもしろかったのかもしれない。

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